Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

2013年によく聞いた音楽

例のごとく音楽もひっそりとふりかえります。あいかわらず発見や面白みのないラインアップです。なにしろ10代のころから音楽の趣味がほとんど変わらないのです。

COMEDOWN MACHINE

COMEDOWN MACHINE


ストロークス起死回生の5作目。まだ自分がストロークスに夢中になれるなんて。ファーストは15歳の私に、コロンブスの卵のような明快さでロックンロールを「思い出させて」くれました。今回の5枚目は久々にその感覚を思い出した。セカンドに少しだけあった横ノリ曲も増えて大満足のでき。最高。かっこいい。
MBV

MBV


まさかマイブラの「新譜」を聞く日がくるなんて思いもしなかった。あんまり突然だからびっくりしたよもう。さらにびっくりしたのはその内容がまったくもってマイブラでしかなかったこと。22年のインターバルは感じさせず、『ラブレス』の1年後とかにひょっこりリリースされたような気すらしてくる。マイブラのフォロワーはたくさんいますが、マイブラの音楽はやっぱりマイブラにしか出せないんだなと胸が熱くなりました。
RANDOM ACCESS MEMORIES

RANDOM ACCESS MEMORIES


ただただクールでセクシーなアルバム。でも聞けばまぎれもなくダフパンなのだ!楽曲単位でことし一番聞いたのは「Get Lucky」。ファレル・フィリアムスをフィーチャーしたこともあり、長らく待っていたN.E.R.Dの新作を聞いたような喜びもありました。
重いので閉じます。

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2013年映画ベスト

 鉄板だったはずのベストAVエントリの伸び率がいささか悪いことに困惑しつつ、今日は映画を振り返ります。今年もいろいろありました。恋人ができたと思いきやあえなく破局したりとか。それからラジオで映画のことをしゃべる機会もありました。でも私はやっぱり書く方が向いているなあとおもった。今年の新作観賞本数は少し少なめで76作。例年どおり悩みに悩みこねくり回した挙句に選んだ10本はこちらです。

1.『横道世之介』(沖田修一)

Yokomichi Yonosuke/2013/JP

2.『かぐや姫の物語』(高畑勲

The Tale of the Princess Kaguya/2013/JP

3.『ペコロスの母に会いに行く』(森崎東

Pecoross Meets His Mother/2013/JP

4.『ジャンゴ 繋がれざる者』(クエンティン・タランティーノ

Django Unchained/2012/US

5.『モンスターズ・ユニバーシティ』(ダン・スキャンロン)

Monsters University/2013/US

6.『きっと、うまくいく』(ラージクマール・ヒラーニ)

3 Idiots/2009/IN

7.『ルビー・スパークス』(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス)

Ruby Sparks/2012/US

9.『パラノーマン ブライス・ホローの謎』(サム・フェル、クリス・バトラー)

ParaNorman/2012/US

 昨年に続いて日本映画が1位となった。ことしは過去10年間でもいちばん日本映画の新作を見た年になったとおもう。仕事で見たものもけっこうあるけど、『ガッチャマン』など一部を除けばかなり満足できたし、一時期と比べて水準が高くなっていると感じた。昨年、『桐島、部活やめるっていよ』や『サニー 永遠の仲間たち』の登場人物を私は愛してしまっていると書いたが、今年は『横道世之介』がそんな作品だった。世之介(高良健吾)の奇妙な言動を思い出してはくすりと笑ってしまうことが今でもあるし、そんなとき私はとても幸せな気持ちになれるのだ。人生における取るに足らない一瞬を不意に思い出し、笑ってしまうことが誰にでもあるとおもう。『横道世之介』はそうした「思い出すことの幸福」についての映画である。すごいのは作品そのものが私にとって、たびたび記憶から取り出さずにはいられないくらい、いとおしい「思い出」になってしまっているという点だ。もはや私にとって『横道世之介』は映画でなく記憶になってしまっている。沖田映画特有ののんびりとした時間感覚は人によってはひどく冗長に思えるかもしれない。しかし、そもそも人生の楽しみとは経済や効率とは無縁のところにあるのではないか。つかみようのない楽しみや幸せを切り取るとき、沖田監督は卓抜した資質を発揮する。こうした資質が、物語のメッセージとこれまで以上にうまくマッチしたのが『横道世之介』という傑作だ。信じられないほどの多幸感が全編に横溢し、見た後には一抹の寂しさがともなう。一番近い作家はジャック・ロジエだろう。ロジエもまたバカンスで若い男女がきゃっきゃと遊んでいるだけで一本の映画にしてしまう。無価値な遊戯にこそ映画でしか表せない輝きが宿るのだ。
 『かぐや姫の物語』について、あれこれと考えて文章を準備していたが結局書ききれないまま、年末を迎えてしまった。この作品がもつ豊かなイマジネーションや生命感をとてもじゃないけど言語化できなくて、本当にもどかしい。高畑勲には『十二世紀のアニメーション』という名著があるが『かぐや姫〜』は「二十一世紀の絵巻物」といっていい。誰もが知っていて、誰も知らなかった物語の強靭な美しさにうたれる。たけのこと捨丸が盗んだうりをともに食べるときの妖しい官能を思い出そう。子どもたちがキジを追い立てるときの高揚感は!絶望したかぐや姫が屋敷を、山を、走り抜ける場面の野蛮な活力は!いちいち挙げていくときりがないし、なんだかばからしくなってくる。何もかもが新しいようで、それでもやはり一連の高畑作品でつむがれてきたさまざまな要素が生きているのにもうならされる。『かぐや姫』を見た後だと、たとえば『おもひでぽろぽろ』とか『となりの山田くん』、『太陽の王子ホルス』ですらずいぶん違った印象になりそうだ。いやいやそんな規模の小さな話でもない。作品を見る前と見た後で、世界の捉え方が決定的に変わってしまう、そんな作品が世の中にはいくつかあるが、『かぐや姫』もまたそうした映画のひとつになるだろう。
 『ペコロスの母に会いに行く』。『横道世之介』と同じく記憶についての映画である。作品については先日書いたのでそちらを見てほしい。先日Eテレで森崎監督のドキュメンタリーを放映していた。本作は認知症の女性を扱っているが、森崎監督も自身の記憶力、思考力の低下を痛切に感じていたという。正直、驚いた。映画はこれまでの森崎映画と変わらないエネルギーとみずみずしさにあふれていたからだ。私にとっては自分の日々の暮らしと映画の中の物語をつないでくれる、とっても大事な一本でもある。それが森崎東監督の作品でほんとうにラッキーだった。これが1位でもよかったんだけど、3位に置いたのはたぶん『ペコロス』はこれから年を重ねるともっともっと好きになれるとおもったから。
 上位3本を日本映画が占め、外国映画のトップはクエンティン・タランティーノの『ジャンゴ』となった。タランティーノは娯楽と通俗を裏切らない。いつも晴れやかな表情で私を映画館から追い出してくれるから好きだ。前作『イングロリアス・バスターズ』で完膚なきまでに叩きのめされたいけすかないドイツ人だったクリストフ・ヴァルツが、今回は正義感と誇りにあふれたドイツ人として登場する。キング・シュルツの出演するシーンはどれも最高なのだけど、私が一番ぐっときたのは人種差別者たちに向かって「ベートーベンはやめろ!」と叫ぶシーン。自分の出自に誇りを持つなら、こういう形でありたいとおもう。
モンスターズ・ユニバーシティ』。ここ数作は低調気味だったピクサースタジオだったが、大ヒット作『モンスターズ・インク』の前日譚でまさかの起死回生。事前の期待値が低かったこともあり、満足度はことし一番の伸び率だったかもしれない。クライマックスはまるでアルドリッチの映画のようだった。未熟な弱者たちがほとんど成り行きで力を合わせるという展開(『ヱヴァ:破』とか)が好きだ。マイクとサリーそれぞれの自己実現とコンプレックス克服の瞬間でもあり、名コンビ誕生の瞬間でもある。モンスターが人を脅かす場面があんなに泣けるなんて。最底辺フラタニティ、ウーズマ・カッパの面々も久々にピクサーらしくてよかったし、前作では少しかわいそうだったランドールのキャラクターが深められているのもうれしい。ラストのサリーとマイクの会話はほとんどロマンティック・コメディのそれである。コンビが学歴ではなく、底辺からキャリアを積んであの場所にたどり着いていたことにもぐっとくる。March Fourth Marching Bandによる陽気なテーマ曲も最高だった。
 『きっと、うまくいく』はアメリカ映画のような洗練されたシナリオ構成にインド映画ならではのサービス精神を盛り込んだ最終形態ともいうべき作品。主人公たちの大学時代を描く青春パートとかつての友人の消息を追うミステリー要素が絶妙に絡み合い、約3時間の上映時間、一切弛緩することなく突き進んでいく。ベタすぎるギャグ、脇役の動かし方、ミュージカルシーンももちろんいい。クライマックスやオチで生きてくるボールペンの小道具の使い方など本当に巧い。ボリウッド映画はことしも楽しめました。同時期上映の『タイガー 伝説のスパイ』『命ある限り』『闇の帝王DON』すべて見ましたが、大満足の出来だったし、小品の『スタンリーのお弁当箱』もよかった。『オーム・シャンティ・オーム』もスクリーンで見られてよかった。今後もインド映画はどんどん輸入して、定着してくれればいいなと切に願っています。
 『ルビー・スパークス』。公開は昨年末ですが地元では遅れたのでここに。『(500)日のサマー』も『ブルー・バレンタイン』も平気で楽しんでいた私は『ルビー・スパークス』を前に完全に打ちひしがれたのだった。ポール・ダノ演じる主人公が劇中でしでかす数々の間違いを、私もやらかしたことがある。人を愛しているふりをして結局は自分を愛しているだけの呆れたクズ人間が私だった…これまでの恋人達たちに土下座して謝りたい。
 年末に見た『ゼロ・グラビティ』はこの位置に。映像体験としては圧倒的だったし、傑作だとおもうが、象徴性がやや前面に出すぎた気もする。音楽もこの際なくてよかったのでは、と感じなくもないが、好みの範疇でしかなく欠点にはならないだろう。壮絶な映像を見せられたあと、宇宙服を脱いだサンドラ・ブロックの肉体に息をのむ。
 『パラノーマン』は『コラライン』のライカスタジオ製作の人形アニメーション。評判はすこぶるよかったが、地元では公開がなくブルーレイでの観賞となった。劇場で見ていればもう少し上だったかも。ホラーマニアの少年を主人公にした許しと相互理解の物語。人は話し合いによってよりよく振舞えるはずだというポジティブな人間観に貫かれている。王道ではあるが、こういうテーマを語るとき、やはりアメリカ映画は強いなと感じる。つづく
 『42』も『パラノーマン』と同じくアメリカ映画らしいポジティビティが貫かれた作品だが、本作のそれはより傷だらけでしたたかだ。ヘルゲランドはクラシックな演出に徹しつつも、ここぞというところでドラマを盛り上げ、実話を神話に昇華してみせる。列車に乗ろうとしたジャッキーが近くにいた黒人少年にボールを投げる。走り出した列車を少年が追いかけていく…ただそれだけの場面にどうして涙があふれてしまうのか。キャリア最高の名演を見せるハリソン・フォードを始め、役者陣もすばらしい。最大の勝因は、主人公ジャッキー・ロビンソンを演じたチャドウィック・ボーズマンを初めとした黒人俳優たちの美しさだ。ボーズマンの精悍な顔立ち、血の通った身体性、誇りに満ちた振る舞いはまるで聖職者のようである。実際にこの映画はかなり意図的にロビンソンをキリストになぞらえてもいる。キャラクターよりも顔や運動が心に残るんですよね。妻役のニコール・ベハーリー、スポーツ記者のアンドレホランドもいい。
 続いて次点、のなかで特によかった5本です。 

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『ペコロスの母に会いに行く』(森崎東)―歌と記憶とこのまちと

"Pecoross Meets His Mother"2013/JP

『007 スカイフォール』のエンドクレジットに「長崎市 軍艦島」の文字が日本語で登場したときは、客席がにわかにどよめいた。『横道世之介』から『ウルヴァリン:SAMURAI』に至るまで、私の地元長崎は今、ちょっとした「まつり」のさなかにある。映画の中で見慣れた(あるいは見慣れない)風景や聞き慣れた地名、方言が登場するのはふしぎでこそばゆい。昔から映画が好きだったが、坂道と猫と年寄りばかりがやたらと多いこの街なんて、映画の世界から一番遠く離れていると思っていた。『ペコロスの母に会いに行く』は、長崎市で活動する漫画家、岡野雄一氏の一連の作品を、島原市出身の森崎東監督が映画化したものだ。長崎県出身の岩松了が主演を務め、原田貴和子、知世姉妹も登場。にっかつロマンポルノで活躍した佐世保市出身の白川和子まで顔を出す。地元ロケのシーンが全編のおよそ9割を占める。長崎の映画ファンには夢のような企画である。もちろん森崎監督最後の作品(と本人は語っている)という意味では、いちローカル映画の枠にとどまならない日本映画史における重要作だ。キャストやスタッフも森崎の映画でなければここまでの水準は実現しえなかっただろう。そんなすごい映画が、私の住む街と地続きにあることが今でも信じられない。
 しかし、私以上に「信じられない」と感じているのはほかならぬ原作者の岡野氏かもしれない。映画『ペコロス』製作の経緯はとても変わっている。実際の岡野氏は劇中の岩松の風貌さほど変わらない、人の良さそうなハゲ頭の中年男だ。東京で編集者として仕事をした後(このころ同じく長崎出身の漫画家・丸尾末広の『少女椿』を担当したという)故郷に戻りタウン誌の編集などを経て、フリーでまんがやエッセイを書いていた。ビートルズ直系のメロディに長崎弁の歌詞を載せた曲でミュージシャンとしても活動している。バラードはホワイトアルバム期のジョン・レノンの書く曲に似ていて特に好きだ。認知症の母親とのやりとりをエッセイ風につづる作品は数年前から描いており、長崎市内で小さな原画展を開いたりもしていたが、まだまだ知る人ぞ知る極めて地道な活動であったと記憶している。ところがどういうわけか、2年前に自費出版した『ペコロスの母に会いに行く』は地元の書店でかなり売れ、その後SNSを通じて全国的な反響を呼んだ。それを見つけた「素浪人」という耳慣れない制作会社が映画化を企画という。初めて映画化のニュースを聞いたときは正直半信半疑だった。「え、ペコロスって?あの岡野さんの?森崎東が?…うそだあ」とおもった。そもそも、ボケた母親を介護するハゲた中年男の話なんて映画になるのだろうかともおもった。いや岡野氏の原作はすばらしい。すばらしいが、映画化にあたって多少は「一般向け」にアレンジしてしまいそうなものだ。しかし森崎東は原作の持ち味であるユーモアとペーソスをほぼ100%忠実に生かしきっている。岩松はしっかりとハゲメークを施し、せりふも完全な長崎弁で押し切った。地元出身の岩松と原田貴和子はともかく、ネイティブが聞いてもほとんど違和感のない赤木春恵加瀬亮の達者ぶりには驚いた。
 おおよそ映画になりそうもない物語。長崎でなくとも、日本全国どこにでもありそうな物語。にもかかわらず『ペコロス』は極めて映画的であり、そして長崎という街から切り離せない。劇中では、山の傾斜にへばりつくように家が立ち並ぶ長崎独特の風景が随所に挿入される。せりふにもあるが、人々がごく日常的に坂道や階段を上り下りするこの街では「ぜんぶが見える」。だからこそ、街に息づく人々の生活が確かに実感できる。長崎っていい街だなと少し自慢におもった。行きは風を切るように自転車で駆け降りても、帰りはその自転車を重いと毒づきながらのろのろと手で押して歩く。エスカレーターでどちらに並んでいようが後ろから舌打ちされることはない。なぜかお墓で弁当を広げ、花火を上げる。年に1度、夏の暑い日に人々は歩みを止めていっせいに目を閉じる。そんな風変わりな街で暮らす名もなき人々の営みが、極めて映画的に、ダイナミックに飛翔していく。見る者はなんだか勇気が湧いてくる。その高揚感は、まぎれもなく森崎映画の醍醐味なのだった。
 森崎映画では歌がしばしば重要な役割を持っているが、『ペコロス』ももちろん数々の歌に彩られている。とくに冒頭、みつえの回想シーンの中で女学生たちが歌う「早春賦」(宇崎竜童が指揮をしている!)や、グループホームの部屋でぽつんと座るみつえの口をついて出るでたらめな「でんでらりゅうば」は、彼女の混濁した記憶と密接に結び付いて、効果を上げている。中盤、ゆういちがライブハウスで歌う「寺町ぼんたん」は、原作者の岡野氏の代表曲のひとつ。「ちんちん伸びたり縮んだり〜」としょうもない歌に聞こえますが、じっさいは「一日ん伸びたり縮んだり」と歌っていて、どちらの意味でも通るように考え抜かれた歌詞になっている。このあたり、いかにも森崎監督が気に入りそうなセンスですね。ちなみにライブハウスの場面の冒頭で歌っている的野祥子さんの「Happy Birthday」は角煮まんじゅうのCMソングとして地元の人間で知らぬ者はいません。
 ハゲメークによりペーソスを増した岩松了の軽妙さ、長崎の夜景にも匹敵する原田姉妹の美しさもすばらしいが、やはり特筆すべきは本作が初主演となった赤木春恵のコメディエンヌぶりだろう。認知症のあぶなかっしいおばあさんをチャーミングに演じる前半部もいいが、後半に進むにつれその目から少しずつ生気が失われていく様子には胸が締め付けられる。記憶が薄れるとともに、かつて母だった人が母ではなくなっていく。その重みに耐えられず、思わず落涙してしまうゆういちを母親が「泣かんといて」と抱きしめる。森崎映画の中でもかなりウェットな場面だとおもうが、慈愛に満ちた赤木の表情が美しい。本作は認知症や介護をテーマにしたハートウォーミングなドラマと思いきや、その実、天草で生まれ、長崎に嫁ぎ、子を産み、年をとった女みつえのしたたかな一代記ものである。ゆういちとみつえのやりとりを中心とした現代のストーリーに、天草で過ごしたみつえの幼少期や長崎でゆういちを育てた日々がフラッシュバック形式で挿入される。これは原作のすぐれた点なのだが、記憶がランダムに呼び起こされる認知症特有の状態を、物語の演出として効果的に用いている。一見、脈絡なく並べられたエピソードからみつえの過ごした人生が少しずつ浮かび上がるのだ。そしてクライマックス、二つの時間軸は、まさに映画的としかいいようのない方法でひとつの糸に収斂していく。見事としかいいようがない。笑って泣けるとはこのような映画をいう。四の五の言わずに見にいくべし。

極私的ウルトラ戦闘シーンBEST30

ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』『ウルトラマン80』の全345話の中から、個人的に好きな戦闘シーンベスト30をランキング形式にまとめました。 久しぶりに動画をつくったけど、エンコードが大変だった。そのうち消えるとおもいます。冒頭テロップで「男子が数人集まれば…」と書いたこと、すごく後悔している…。男女も、大人子どもも関係ない!すべてのウルトラ好きの人々にささげます。

30〜26位

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25〜21位

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20〜17位

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16〜13位

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12〜9位

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8〜5位

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4〜1位

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SF映画ベスト10

SF映画ベストテン - 男の魂に火をつけろ!
 今年もやってきました。お題はSF映画!ではさっそくいきます。

1.『ロボコップ』(ポール・ヴァーホーヴェン

"Robocop"1988/US

2.『パプリカ』(今敏

"Paprika"2006/JP

3.『プロメテウス』(リドリー・スコット

"Prometheus"2012/US

4.『月世界旅行』(ジョルジュ・メリエス

"Le Voyage Dans La Lune"1902/FR

5.『ミクロの決死圏』(リチャード・フライシャー

"Fantastic Voyage"1966/US

6.『ウォーリー』(アンドリュー・スタントン

"WALL-E"2008/US

8.『ミクロキッズ』(ジョー・ジョンストン

"Honey,I Shrunk the Kids"1989/US

9.『アルファヴィル』(ジャン=リュック・ゴダール

"Alphaville, une étrange Aventure de Lemmy Caution"1965/FR-IT

10.『バーバレラ』(ロジェ・ヴァディム

"Barbarella"1967/FR

 迷うかなと思ったがすんなりと選べた。選外の候補作は『アビス』『SUPER8』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『妖星ゴラス』『ザ・フライ』『アンドロメダ…』『トゥモロー・ワールド』『禁断の惑星』『ギャラクシー・クエスト』『ロボット』など。SFは間口が広い。「サイエンスフィクション」も「すこしふしぎ」も、どちらもりっぱなSFだともおもうが、id:washburn1975さんの「センス・オブ・ワンダーを感じる作品」というのが結局一番しっくりくる。タイムループを利用したトリッキーな物語も、現実社会と地続きの風刺性も、緻密な疑似科学の説得力も大事だとはおもうが、結局私にとってSF映画の魅力は9割9分くらいはビジュアルである。画で驚かせてくれたり、かっこいいと思わせてくれればけっこう許せるみたいなところがある。だから、初めにこのお題について考えたとき、なんとなく最近10年くらいの映画ばかりになるような気がしていたが、蓋を開けてみるとそうでもなかった。
 ほかの方のランキングをいくつか見てみましたが、今年はわりと王道作品が並びやすいお題だったかなとおもう。私も気をてらわず『ロボコップ』を1位とした。リメーク企画が進んでいるが果たしてどうかって、去年のホラー映画1位の『キャリー』で同じこと思ってた気がする。なんとなく自分の中で「1監督1作品」のルールを設けているので最後まで『スターシップ・トゥルーパーズ』と悩んだが、愛すべき凶悪犯たちの魅力でこちらを。
 2位は『パプリカ』。今氏の築き上げた悪夢のビジュアルはノーランやアロノフスキーを初め世界中にセンス・オブ・ワンダーをもたらしてくれた。
 おそらくリドリー・スコットの『エイリアン』『ブレードランナー』はかなり上位に入ってくるとおもうが、私は完全に『プロメテウス』のとりこです。これが1位でもよかった。なぜならほとんどSFマインドだけでできているから。ブルーレイの音声特典で「久しぶりに楽しかった」というスコットの無邪気さが爆発した異形の傑作。
 このランキングに『月世界旅行』を入れるのはあざといと思われそうだが、100年以上前に作られたモノクロ16分の映像はいまだに私たちをわくわくさせ、想像することの面白さを教えてくれる。そして、月からロケットを落としてみせるメリエス乱暴かつ稚拙な遺伝子理論で人類の起源を片付けてしまうリドリー・スコットの態度は同じくらい純粋でかっこいいとおもう。
 『ミクロの決死圏』と『アルファヴィル』。「SF観」というものが私の中にあるとすれば、その形成にもっとも寄与したのは『ウルトラセブン』だろう。本当は『セブン』で10本選べてしまうくらいなのだけれど、残念ながらテレビドラマは対象外となっているので、「悪魔の住む花」と「第四惑星の悪夢」それぞれの原点とも呼べる2作をラインアップ。
 『ウォーリー』はまず初めにシナリオの素晴らしさがあるが、ウォーリーとイヴの対照的なデザインの妙を含めロボットたちの造形が素晴らしい。基本的にはスウィートでかわいらしいラブストーリーなのだが、そこにはSFならではの手法で皮肉や風刺が織り込まれている。エンドロール後に「BNL」のアイキャッチが入ったときの戦慄。
 スピルバーグ作品は『ジュラシック・パーク』、『宇宙戦争』と悩んだがやはりビジュアル面の圧倒的な面白さで『マイノリティ・リポート』を。ディック作品が1作も入っていないと自分の中では収まりが悪いので。
 『ウルトラセブン』と同じくらい私のSF観形成に影響を及ぼしたのは『ドラえもん』。今回はドラえもん映画は外してしまいましたが藤子・F・不二雄スピリッツを受け継ぐ作品をひとつ入れておきたくて『ミクロキッズ』を入れました。特撮もよくできているし、出演者も好演している。そして犬が可愛い。現代は「ハニー、子供たちを小さくしちゃった!」ですが、『ミクロキッズ』の邦題は素晴らしいですね。昔はよく地上波で放映していたが、最近見ない。
 最後はロジェ・ヴァディムの嫁自慢映画『バーバレラ』。これは本当にくだらない内容で、先日ブルーレイが発売されたので久々に見返したらやっぱりくだらなくて驚いた。でもこの作品は私を含めて多くの人々に愛されている。冒頭の無重力ストリップやセックスマシーン、オルガスマトロンのセンスオブワンダーとよぶにはあまりにくだらないが、決して下品にならないのがずるい。衣装はどれも素晴らしく、今見てもかっこいいとおもう。
 以上です。今年の集計よろしくお願いします!

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語』(新房昭之、宮本幸裕)

"Puella Magi Madoka Magica the Movie Part3:Rebellion"2013/JP

 悲壮すぎるストーリーと深いテーマ性で一躍ムーブメントを巻き起こしたシャフトの傑作アニメの劇場版第3作。話題作なので段階的にネタバレしていきます。テレビシリーズの総集編だった前2部作を経て、今回は完全新作の続編です。一応、前2部作の感想を貼っておきます。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之、宮本幸裕) - Devil’s Own −残骸Calling2−
 というわけで初日にいそいそと見てまいりました。結論からいうとすごく面白かった。1分1秒に多くの情報が詰め込まれ、「この先どうなるのか」と絶えず興味を持続させてくれました。強いていえば中盤の会話劇が少ししつこいかなと思った程度で、基本的にはずっと引き込まれて見ることができた。少なくともスッキリした終わり方ではないです。どのくらいスッキリしないかというと、エンドロールが終わって劇場が完全に明るくなるまで誰ひとり席を立つ人がいなかったほど。ハードな世界観をしっかりと継承ながら、各キャラクターに見せ場があり、テレビシリーズの焼き直しではない全く新しい物語を創出している。シリーズのファンは必見といえます。逆にいうと、まったく予備知識のない観客がついていくことは至難の業とおもう。ただし、全12話のテレビシリーズを見返さずとも、劇場版2部作さえ押さえていれば問題ないです。新房監督自身、テレビシリーズはそれじたいが完結していて、今回の劇場版は全2作の続編であると位置付けているようだから。もちろん、テレビシリーズを全話見ていて、劇場版2部作は見ていないという人でも問題なく楽しめます。ビジュアル面の見せ場について先に触れておくと、劇団イヌカレーによる異空間デザインが相変わらずおぞましく、劇場版ならではのスケールを見せてくれる。特に序盤のぬいぐるみを用いたロトスコープアニメが凝っていてよかった。それから中盤、曉美ほむらと巴マミが繰り広げるジョン・ウーばりのガンアクション。おそらく気の遠くなるような作画枚数を使って、『リベリオン』的なガンガタ(そういえばタイトルも叛逆=Rebellionである)が見事に表現されていてる。この2点だけでも劇場で見る価値が十分にあります。
 『まどマギ』は自己完結型のストーリーだ。『2001年宇宙の旅』を思わせる壮大な最終話には、初見時こそ呆然としたが、作品を見返し、考察を深めるうちに緻密に計算された結末だとわかる。物語にちりばめられた伏線が終盤に進むにつれて回収され、独自の摂理に支配された世界がきれいに閉じられていく。完成された物語ゆえに今回の続編に蛇足感がない、ともいいきれない。しかし私は、完結した「秩序」をはみ出して紡ぎだされる物語のいびつさにこそ惹かれる。というより「秩序への反逆」じたいがこの続編のテーマそのものでもある。
 少し内容に踏み込みます。本作は大まかにいって3幕構成となっている。1幕目は鹿目まどか、曉美ほむら、巴マミ美樹さやか佐倉杏子の5人の魔法少女が力を合わせて活躍する世界。彼女たちは魔女でも魔獣でもなく、ナイトメアと呼ばれる敵と戦っているが、その戦いはさほど危険なものではないらしく、どこか遊戯的である。なにしろ「お茶会」と呼ばれるなぞのテーブルゲームでナイトメアを退治するのだ。セーラームーンプリキュアのようにけれん味たっぷりの変身シーンの後、「プエラ・マギ・ホーリークインテット!」という決めせりふまで飛び出す。キュゥべえにいたっては「キュゥ、キュゥ」とポケモンのようにかわいく鳴く始末だ。見ているとこちらが恥ずかしくなってくるほど、徹底的に「魔法少女もの」のクリシェをなぞっていく。宮本幸裕監督なんかは恥ずかしさのあまり「プエラ・マギ・ホーリークインテット!」の掛け声を絵コンテから勝手に消してしまったほどだという。あとで新房監督に叱られてもとに戻したそうだが、消さないのは正解だった。私たちは『まどマギ』が「魔法少女もの」を裏切る物語だと知っている。だから「まっとうな魔法少女もの」としての描写が過剰であればあるほど、違和感と不安が募っていくのだ。テレビシリーズと同じくイメージを逆手に取った見事な作劇である。テレビシリーズでマミを惨殺した魔女が、なぜかふつうに仲間としてそばにいるのも余計に不安感をあおる。
 そんな中ほむらは、世界に違和感を抱き始め、独自に動き始める。無限にループする自閉的な日常からの脱出を試みようとする展開から『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を 想起する人も多いだろう。前述したほむらとマミの戦闘によってこの問題が顕在化。物語は、この世界を作り上げたのは誰なのかという謎解きへとシフトしていくのだった。これ以降はかなり重要なネタバレを含みます。ここまで読んでみて、見る気になった人は観賞後に読むことをおすすめします。というわけで以下閉じます。

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10月に見た映画(『クロニクル』『パッション』など)

 10月に見た映画は『ダイアナ』を除けば総じておもしろく、高水準の映画でした。『そして父になる』『凶悪』『地獄でなぜ悪い』にも大満足したが取り急ぎ洋画について書いておく。

『クロニクル』(ジョシュ・トランク

"Chronicle"2012/US

 昨年から熱烈な支持を受けていたのは知っていたが、まさか地元にまで上映拡大するとは。首都圏の皆さんが熱心に足を運んでくれたおかげです。ありがとうございました。すでに絶賛が集まった作品を、あらためてほめるのは気恥ずかしいが、実際に前評判にたがわぬ傑作だとおもった。よく練られた脚本に的確な演出力、主演のデイン・デハーンを始めキャスト陣の演技も申し分ない。超能力を身に付けた高校生たちの日常をPOV形式で描く語り口も巧みかつ新鮮。その鮮烈なデビューは、3年前の『第9地区』を思い起こさせる。ヒーローのオリジンものとしても、ティーンエイジャーを描いた青春ものとしても今後も繰り返し言及されるであろう画期的な作品です。トランク監督はこの映画の参照点としてブライアン・デ・パルマの『キャリー』『フューリー』、そして大友克洋の『AKIRA』をあげているという。いずれも超能力を題材としながら、思春期の不安定で制御不能な心理を描いた名作だ。抑圧された日常から逃げるために、超能力というファンタジーにどんどんのめり込んでいくアンドリュー(デハーン)の姿から『フューリー』のロビンや『AKIRA』の鉄雄を想起できる。くわえて、『クロニクル』が突出しているのは、もはや手法としては飽和状態とおもわれたPOV形式の語り口である。アンドリューが自分自身の挙動の一切をカメラに収めようとする「自画撮り」への執着が作劇に生かされている。アンドリューの超能力がエスカレートするのに比例して、カメラも彼の手を離れ、飛躍し、その映像は「劇的」になっていく。カメラの視線はアンドリューの自意識とシンクロするように増幅していき、やがてすべての視線を強制的に自分に集めるという、やるせないクライマックスへと突き進んでいく。もう一人の自画撮り少女、ケイシー(アシュレイ・ヒンショウ)の存在も効いている。自己を対象化し、視線をコントロールできるキャラクターと対比させることでアンドリューの歪んだ自意識がより醜く、哀しい。同時に後半ではアンドリューの暴走に巻き込まれる客観視点として機能しているのも見事だ。最後に『クロニクル』はいったい誰が編集したのかという問題がある。私はむしろその不可能性にこそ惹かれた。『クロニクル』は本来絶対に完成するはずのない、見ることのできない映像である。劇中の登場人物たちは決して『クロニクル』を見ることができない。つまり本当の意味でわかり合うことはできない。その切なさ。この世界中にごまんとあるカメラのすべてを編集し、物語化することなど不可能だ。私たちは所詮、自分のカメラ(視点)でしか物語を見ることができない。しかし、すれちがう視線の一つ一つをつなぎ合わせたとき、なんと豊かな物語が生まれることか。それは映画を見る快楽そのものでもあるのだ。

『パッション』(ブライアン・デ・パルマ

"Passion"2012/FR-DE

 一方、そんな『クロニクル』に多大な影響を与えた巨匠デ・パルマの新作はどうか。例によってブロンド(レイチェル・マクアダムス)と黒髪(ノオミ・ラパス)の美女が登場するが、今回はその対決に赤毛カロリーネ・ヘルフルト)が絡んでいく。くしくも、この映画でもまたカメラが重要な役割を占めている。嫉妬と欲望、覇権争いがうずまく女たちのパワーゲームを征する強力な武器としてカメラが利用されているが、まあそんなことはこの際どうでもいい。
 トレードマークといえる分割画面(コンテンポラリーバレエと殺人!)を皮切りに、麻薬的、魔術的な映像美が爆発。その迷いのなさ、ためらいのなさにあきれつつも、ふるえる。窃視、階段、仮面、双子…つぎつぎと噴出するデ・パルマ的意匠にピノ・ドナッジオの甘美な旋律が重なる多幸感。「嗚呼、デ・パルマの映画を見ている」とよだれをたらし、白目をむきながら、陶然とするほかない。興味のない人には何言ってるのかわからないでしょうが、われわれデパルマ・ジャンキーがここまで興奮するのにはそれなりの理由があるんですよ。「どうせ、いつものデ・パルマでしょう」って、その「いつもの」を与えられるまでにこっちは何年待たされたんだって話である。近作でもっともデパルマ成分の強い『ファム・ファタール』ですら10年以上前である。そして『ファム・ファタール』に欠けていたドナッジオの音楽が『パッション』には、ある。実に20年ぶりである。その一方、初めて組むホセ・ルイス・アルカイネの撮影もすばらしい。前半がおとなしいという意見もあるが、「前戯」があるからこその後半のエクスタシーでしょう。現実と悪夢が混濁する後半戦は高いテンションでエンドマークまで走りきる。まあ、客観的に見れば「デ・パルマ監督作としては中の下」という品田雄吉氏の評価が妥当とはおもうが、デパルマ・ジャンキーにとって今年ベストクラスの映画体験になるのは間違いない。

ペーパーボーイ 真夏の引力』(リー・ダニエルズ

"The Paperboy"2012/US

 『プレシャス』のリー・ダニエルズ監督新作。正直、『プレシャス』の印象をあまり覚えていない。こういうとき何か1行でも感想を書きとめておくべきだったと悔やむ。保安官殺しの冤罪疑惑をめぐって展開する濃密な人間関係。べっとりとまとわりつくように蒸し暑いフロリダの風土(行ったこのないけど)が、登場人物たちのぎらついた欲望とマッチしている。劇中の時代に合わせたのか、70年代の映画を思わせるざらついた質感もいい。ニコール・キッドマンマシュー・マコノヒージョン・キューザック、スコット・グレンらアクの強い俳優陣に囲まれて、ザック・エフロンの清潔感が徐々に疲弊していく。適切なキャスティングだとはおもうが、田舎町の屈折した青年役にはいまひとつ弱い気も。なにせほかの怪演が強烈すぎる。キッドマンのビッチぶりはほとんど殿堂入りだが、圧巻は粗暴な死刑囚を演じるジョン・キューザックだろう。面会室でのキッドマンと興じる長距離セックス(?)もインパクト大だが、その後のセックスシーンで見せる凶暴性は花岡じったも顔負けである。プアホワイトである死刑囚が住む「沼地」はトビー・フーパーの映画に出てきそうなまがまがしさだ。屠られるワニの異様な迫力!動物的なキャスト陣の中にあって黒人家政婦役のメイシー・グレイの美しさも忘れがたい。

『ムード・インディゴ うたかたの日々』(ミシェル・ゴンドリー

"L'Écume des jours"2012/FR

 デューク・エリントンの軽快な音楽にのせて、タイプライターが移動するふしぎな職場で働く人々が映し出される。ああ、これ見たことある!いや見たことないはずだけど、でもなんか見たことある!目の前に広がっているのは確かに、かつて読んだボリス・ヴィアンの世界そのものなのだった。ふかしぎでキュートで、アイロニカルでおそろしいヴィアンの小説世界の映像化にゴンドリーがこれほど適役だったとは。いや驚くことはない。思えば彼が手がけたビョークフー・ファイターズ、ベックのミュージッククリップが、すでにどうしようもなくヴィアン的なイマジネーションにあふれていたではないか。忠実に映像化されたカクテルピアノ、動くドアベル、暴れるネクタイ、スケート場の狂騒などを見るとあらためてヴィアンの想像力に舌を巻く。そのビジュアルのひとつひとつが新鮮で楽しいのだけど、同時に強烈な既視感も覚えるという稀有な映像体験だった。ヴィアンの小説を初めて読んだ時から、何度も何度も心の中に映した映像とほぼ同じだったから。小説の映画化は何度も見てきましたが、ここまで自分の想像したとおりの作品は初めてかもしれない。強いて言うならアリーズとニコラが黒人に設定されているという点(二人が黒人という記述はたぶん原作にはなかったとおもう)に驚きはしたが、今となっては二人は黒人でしかありえないという気すらしてくる。ゴンドリーらしい鮮やかな色彩感覚で表現された若者たちの青春は、クロエの奇病をきっかけに少しずつ彩度を落としほとんど後半はほとんどモノクロ映像になってしまう。楽しかった日々との落差をよけいに際立たせ、つらい。そうだった。『日々の泡』はとてもつらい物語だった…。わかっていたはずなのに、こうも胸が押しつぶされるとは。そんな感情の流れまで追体験させてくれる理想の映画化作品。ディレクターズカットは都市部でしか見られない(まさか『クロニクル』のように大ヒットにつき上映エリア拡大ということにはならないだろう)。ソフトに収録されるだろうから、待ち遠しいところだ。繰り返し見て、細部まで堪能したい。

『進撃の巨人』(荒木哲郎)―ジャパニーズ・カイジュウ・カルチャーの最新型

"Attack on Titan"2013/JP

 2クールにわたり放映されたアニメ『進撃の巨人』が終了した。陰惨かつ過酷な世界観、謎が謎を呼ぶストーリー展開、そして血湧き肉躍る活劇性でぐいぐいと引っ張り、半年間本当に楽しませてくれました。ちなみに連載中の諫山創氏の原作に関しては数年前に3巻まで読んでやめてしまったのですが、このアニメは日本が世界に誇れるジャパニーズ・カイジュウ・カルチャーの最新型にして金字塔だと確信しています。『パシフィック・リム』にとどめを刺され、「日本の怪獣映画は終わった」と皮肉まじりにうそぶく人たちもいますが、いやいや私にとっては『進撃の巨人』こそが見たかった世界なのだった。
 まずは巨人がちゃんと怖い。薄ら笑いを浮かべつつ緩慢な動きで人間を襲い、むさぼり食う巨人たち。ゾンビものの亜流と見る向きもあるが、もっとも近いのは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のモンスター描写だろう。巨人同士の戦闘に転じていく後半の展開は『新世紀エヴァンゲリオン』を経由して『ウルトラマン』の残響が聞こえてくる。いずれも『進撃の巨人』が怪獣映画の正統な後継者であることの証左だ。
 巨人に食われる人間たちの恐怖表現も卓抜だ。たとえば第1話終盤、主人公のエレンが目の前で母親を食われてしまう場面。巨人の襲撃で瓦礫の下敷きになった母親が「自分を置いて逃げろ」と息子に訴える。言うことを聞かずに母親を助けようとするエレンのもとに兵士が登場。一瞬、巨人に立ち向かうかに見えたが、すぐに怯んでしまいエレンを抱きかかえて逃げる。遠くなっていくエレンの後ろ姿を見ながら、母親の口から思わず「行かないで」という言葉がもれる。この場面は本当にすごい。『進撃の巨人』では圧倒的な暴力を前に、人間の誇りや勇気が崩れさっていく瞬間が執拗に描かれる。人間がいかに脆弱で頼りない存在であるかを、ときにシリアスに、ときにコミカルに暴いていく。エレンたちは巨人を介して、世界の不条理、理不尽と対峙してもいる。だからこそこの物語には単なるフィクションを超えた迫真性がある。
 そのほか『スパイダーマン』的なアクションを可能にする「立体起動装置」というガジェット、巨人の侵入を防ぐ「壁」じたいを信仰対象とする怪しげな宗教の存在など、『進撃の巨人』はとにかくディテールが優れているんですよね。これは諫山氏の創造性のたまものだとおもう。原作漫画を読んでもらえばわかるが、まだ若く(私より1歳年下だった!)キャリアも浅い諫山氏の技術力は決して高くない。しかし、粗削りな絵には独特の魅力があるし、次々とあふれてくるアイディアを大学ノートにびっしりと書き込むような初期衝動にあふれている。作者がストーリーやキャラクターに心底ほれ込み、全身全霊で描いていることが伝わってくるのだ。だからこそ、この漫画は多くの人々の心をつかめたんだとおもう。昼休みに自由帳にオリジナル漫画を書きまくっていた全ての子どもたちの夢の結晶なのですよ。
 一方で、その豊かなイマジネーションを語りきるのに、諫山氏の技量は明らかに追いついていない面もあった。私自身、原作漫画はかなり読みづらく途中でやめてしまった。そういう人はけっこう多いのではないか。技術面を補完し、より洗練した形で原作者のイマジネーションを具現化してみせたところにこのアニメの達成がある。極端にいうとアニメというメディアを得て、初めて『進撃の巨人』は「完成」されたように感じる。なにしろ諫山氏自身が「アニメこそが自分のやりたかったこと」と公言しているし、彼の進言によって改変された箇所もあるという。改変に賛否はあるとおもいますが、私は理想的なアニメ化だとおもいますね。原作では描ききれていなかった、細かな背景、登場人物の心理、巨人との戦闘シーンも高いクオリティで再現されている。メーンライターは小林靖子。複数のキャラクターの動かし方やストーリー構成などで、戦隊ヒーローで培った手腕を存分に発揮している。第1話を見たときの「え?ええええ!こんなに面白かったっけ?」という衝撃は本当に忘れがたい。「作品の世界観には惹かれるものの、何となくノレなかった」という人にもぜひ見てほしいです。ほかにもハンジさん最高とか、ジャン成長したなあとか、個々のキャラクターに関して語りたいことはいろいろありますが、このあたりで。シーズン2は作られるのか。はたまた劇場用アニメなのか。今後の展開に興味が尽きないが、個人的には「アニメこそが決定版」とする諫山氏の意見を信じてこのまま原作を読まずに次期製作を待とうと思う。

Bボーイじゃない私が好きだった日本語ラップ16曲プラス1

 私が中高生だった2000年代前半は、日本語ラップがすごく流行っていました。日本語ラップというと「悪そうな奴はだいたい友達」というZEEBRAの有名なフレーズを連想する人も多いとおもいます。確かに学校内のイケてる連中はみんなだぼだぼの服を着て、日本語ラップを聞いてカラオケでもラップしてました。私はというとふだんからsyrup16gを聞いている鬱屈した高校生でしたが、実は日本語ラップもわりとよく聞いていたんですね。友達がラップをしていたというのも大きいですが、単純にかっこいいし新鮮に思えた。最近、なつかしくなって聞き返したりするので、その時聞いていた日本語ラップの楽曲をここにまとめておきたいとおもいます。もし日本語ラップに対してステレオタイプなヤンキーイメージを持って聞いていない人がいたら、もったいないのでぜひ聞いてみてください。

『Groovin'』(EAST END×YURI


『DA.YO.NE』、『MAICCA』の人たちです。『DA.YO.NE』だって今聞いてもじゅうぶんかっこいいですが、あまりに急にヒットしすぎたこともあってか世間的には「一発屋」扱いされているのが悲しいところです。この曲は『DA.YO.NE』を含む4曲入りE.Pのオープニング。Soul2Soulみたいなスムースなグルーヴ感がきもちいいです。

『Stepper's Delight』(Rip Slyme


『DA.YO.NE』がヒットしたのは私が小学生のころ。それから数年後、日本語ラップが急速にメジャー化しました。なかでも人気があったのがDragon AshRip SlymeKick The Can Crewの3組です。Dragon Ashはあくまでもロックに軸足を置くミクスチャーバンドだったのに対し、Ripは4MCと1DJといういわゆる「普通の」ヒップホップグループ。本格的なマイクリレーやライミングなども私にとっては初めて聞くものだったので彼らの登場は衝撃的だったのを覚えています。Ryo-Zのラップがすごく巧いですね。
以下閉じます。

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