Devil's Own

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「贖罪と寛容」のテーマは実践されたか?−完結編「スパイダーマン3」

なんか麻疹が流行して、一週間以上ぽっかり連休出来てしまったんだけどさ、やることねー。こういうとき彼女とか欲しいよね。
 最近ノートPCのファンがビュンビュン言うとるんやけど、これやばい気がする。

 さて、空いているので平日に見るのが良かろうと「スパイダーマン3」を観る。3は映画論の講師ともちょっと話題に上っていて、やはり前作が王道ヒーロー映画としても、ラブストーリーとしてもしっかりと基本的なマナーを踏襲する大傑作だっただけに3はどうしても評価辛くなるよねという話はしつつも、そういった前評価やサム・ライミ監督作とかはあまり意識せずに楽しもうと思い劇場へ行った。
 2と明らかに異なっているのが主人公のピーターがヒーロー稼業も学業も恋も全てが絶好調の状態で本編がスタートするという点で、2ではあんなにリアルに描かれていた経済的悩みについては一切触れられず、あれれれれーという感じだ。そういった通常のヒーロー像のイメージからは全くかけ離れているリアリティーを敢えて描いてみせるところに「スパイダーマン」の面白さがあっただけに、少し絶好調モードに対する違和感も手伝いイマイチ乗り切れないまま本編が進む。
 本編が進んで暫くするうちにそういった細かい点がオミットされていた理由がわかったのだが、近作は前作、前々作に比べても圧倒的に多くの要素を詰め込んでいて、しかもそのどれもがストーリー上における核をなしているという点だ。簡単にまとめると
1.恋人メリージェーンとのすれ違い
2.精神寄生体ヴェノムによる二重人格化
3.伯父を殺害したマルコ=サンドマンとの確執
4.復讐を誓う親友ハリーとの確執

の4点で、この4点をいかに上手く消化し、収束させるかが本編のポイントとなっていた。で、簡潔にどうだったのかと言われれば、まとまってはいた。むしろここまで多くの要素を詰め込んだわりによく綺麗に収まったものだと感心もした。が、やはり「2」の完成度には及ぶまいといった印象だ。あまりに好都合で説得力に欠ける展開が目立つ。
この4点を中心に検証していこう。以下ネタバレ。
まずは、メリージェーンに関して、前2作ではこれが物語の中心でもあり重要性の大半を占めていたといってもいいだろう。スパイダーマンの力を持ってから得てしまった「大いなる責任」、これを実践するためにピーターが犠牲にしなくてはならなかったのがメリージェーンとの恋愛であり、この葛藤と克服が大きなテーマとなっていた。故に、映画「卒業」へのオマージュ精神を持って描かれた「2」での劇的なラストは非常に感動的だった。互いに強烈に惹かれあいながらも、障害に苦しみ、最終的には結ばれるという恋愛ドラマの王道を地で行くストーリーであり、故に「スパイダーマン2」は秀逸な青春映画として昇華したのだ。で、「3」ではもうMJとの関係について語られることはないのかといえばそんなことはなく。ピーターはMJへのプロポーズのためにメイ伯母さんから思い出の指輪を譲り受ける。一方メリージェーンは、レギュラーだった舞台を酷評され降板させられてしまい、再び、ウェイトレス兼シンガーのアルバイト生活に逆戻り。この苛立ちとは対照的に絶好調のスパイダーマン・ピーターに疎外感を隠せない、故にすれ違うといった展開。僕はまず第一にメリージェーンのキャラクターがそんなに好きになれないのだが、今回は三部作の中でも特に感情移入しづらい独りよがりな我が儘オンナに成り下がってしまっていた。舞台から下ろされたことで明らかに八つ当たりしていたし、ちょっと上手くいかなくなったらすぐにハリーに靡いちゃう尻軽さに呆れる。そして、ラストのラストで今までのいざこざがなかったかのように抱きしめあうって何も解決してないじゃんという感じだ。しかも、後半メリージェーンへのプロポーズに関しては全くもって言及されていない。これはいかんよさすがに。冒頭のハリーとの戦闘シーンでは、取り落としそうになる婚約指輪を必死で捕まえようとする様子が描写されていて劇的効果を生んでいただけに、これが全く後半で関係しないのは違和感がある。例えば最初の戦いで、指輪を落としてしまって、そのことでメリージェーンにプロポーズできなくなって、最後の最後に指輪が見つかる方が盛り上がると思うのだが。
2番目。メリージェーンとのすれ違いに更なる追い討ちをかけるのが、精神寄生体ヴェノムの存在で、非常に大きな高揚感が得られる一方で、内面にある攻撃性を増幅させるヴェノムが、着実にピーターの精神を侵食し始める。暴走する憎悪と苛立ちからMJを傷つけハリーに重症を負わせたピーターは、流石に危機感を感じてヴェノムを自ら引き剥がす。が、ヴェノムはスパイダーマンの虚報記事を書き、それを暴かれたことでピーターを逆恨みするゴシップ記者のエディーに寄生してしまう。重要なのはこのヴェノムの存在は紛れもなくピーター自身の潜在意識に起因するものであり、ヴェノムはある意味でピーターの分身、オルター・エゴであるという点で、エディに寄生したとは言え、ヴェノムの犯す罪の責任は全てピーター自身に帰結するものである。故に、スパイダーマンは自分自身の手でヴェノムを倒す責任を持っている。日本でも「もう一人の敵、それは自分」などの陳腐ではあるが、的を射たキャッチコピーが付けられていたように、この「自分自身との戦い」は「3」のメインテーマとなるべき要素だと思っていたのだが、そこにエディが入り込んだことで、この構図が見えにくくなってしまった感があった。ピーターがヴェノムが自分自身が生み出した怪物なんだということを意識している描写も少なかったのも残念だ。というのも、これは1番目の要素とも関わってくるところで、ピーターは指輪を譲り受ける際にメイ伯母さんから「妻を自分自身より大切に出来なくてはいけない」と忠告を受けていて、にも拘らずヴェノムに寄生されたことで激しくMJを傷つけてしまったことがプロポーズへの自身を喪失させてしまう。ピーターにとって、MJを傷つけた自分=ヴェノムを倒すという行為は、MJに対する愛の再生であり、自身の克服でもある。だから、この点の描写が弱かったのは致命的だったかもしれない。これも様々な要素を取り入れた弊害か。
3番目、更にピーターが克服しなくてはならなかったのは伯父を殺した真犯人マルコへの憎悪である。これが結構とってつけたような感じになってしまっていて、と言うのも「1」で伯父が死んだ原因のひとつは自分自身にあり、そのことがピーターを悩ませ続けていて、「2」ではその事実を伯母に告白し、許しを得ることである程度このエピソードには「救い」が与えられたものだとばかり思っていたわけだから、ここへ来ていきなり「別の真犯人」がいたとされると物凄く拍子抜けしてしまう。とは言え、このマルコ=サンドマンの存在は本作のテーマである「贖罪と寛容」を表現する上で重要なキャラクターではあった。
 4に関して言えば、これは第1作から張られていた伏線であり、このエピソードに決着をつけることは「3」における約束のようなものだった。冒頭部でハリーは父親の遺品を引き継ぎ、ニューゴブリンとなってピーターに襲い掛かるわけだが、この激しい戦闘(本編中の戦闘シーンでは1番カッコよかった)の末に怪我を負い記憶喪失に陥ってしまうという韓流ドラマ的展開にまずは驚愕する。ニューゴブリンのデザインも、予告編にもちらりと登場し、原作にも「ホブゴブリン」として登場しているグリーンゴブリンの金色ヴァージョンのマスクではなくて、ほぼ真顔に近い形。これは少しがっかりしたが、ドラマを描く分にはこちらのほうが得策だったかなとも思う。結局、記憶を取り戻したハリーは、再び行動を開始、メリージェーンを脅迫して別れさせたりと心理的にピーターを追い詰める。最終的にはヴェノムとサンドマンによって人質にされたメリージェーンを救うために、スパイダーマンと共闘するという展開は、大方の予測通り。憎しみから、ピーターに協力することを拒んでいたハリーが、危機一髪のところで助けに来るという展開はカタルシスを生むが、これが相当無理矢理に作られていて、今まで大してストーリーに絡んだこともない、というより登場していたかも怪しいハリーの執事が、「私は全て見ていました」とか唐突に告白しだし、ハリーを改心させるというオチの付け方は甚だしく違和感があるし、説得力に欠ける。前2作で繰り返し述べられていた「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というフレーズが示すとおり、父親がグリーンゴブリンとして犯した罪は息子のハリーが償うべきであり、故に「大いなる力」を引き継いだハリーはスパイダーマン=ピーターを救う「責任」を担っている。この辺を丁寧に描けば、別に執事を無理矢理登場させる必要もなかったはずだ。先ほども少し触れたが、本作のテーマとして視聴者が強く意識させられたのが「贖罪と寛容」のコンセプトで、ラストシーンではマルコをピーターが許し、ピーターをハリーが許すという構図が描かれていた。だとすれば、ハリーの贖罪についても当然描かれるべきで、それがハリーがピーターに加勢する動機にもなり得たはずなのだ。それが描かれなかったのは非常に残念だ。
 と総じて評価が辛くなってしまったが、やはり前2作で大きな期待を抱かせていただけに仕方ないと言うほかないだろう。VFXによる映像スペクタクルは前2作を上回る迫力と壮大さだったが、やはりスパイダーマンのカッコよさは、しっかりとしたストーリーあってのものだったのだと確認した。
 にしてもラストにおける、ハリーとピーターの会話は感動的だ。この三部作の主人公は彼ら幼馴染の3人組(男2人、女1人ってのがポイントね。)であり、彼らの青春についての物語だとも解釈できるとても象徴的なシークエンスであった。元々から三部作構成を構想していたのかはしらないが、登場人物の殆どにしっかりとした決着が付けられ、ストーリーとして矛盾なく成立している点においては評価できるシリーズだとも思う。泣いても笑ってもこれで完結。スタッフ・キャスト総入れ替えで新作が作られることがあるかもしらんが、あと10年くらいはないだろう。