Devil's Own

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小説における身体の優位性

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 僕は山田詠美とか村上春樹とか読むとセンチメンタル過ぎて、しかも完全にそれに酩酊している感じも不快で、本当に気分が悪くなってしまう。従って自分のことをフランス人か60年代の学生だと勘違いしているハルキストには早く死んでもらいたいと思う。というのは言いすぎですが。
 それでも村上春樹の本はまだ一通りは読んでいたりするが、山田詠美の本を読むのは本当に数年ぶりで、物凄く面白かったのだが、やはり物凄くイライラしながら読んだ。小説を読んでこんなにアンビバレントな感情を持つことも珍しいと思い、一体何処が自分にとって面白く、何処が自分にとって不快なのかを考えてみたのだが、まず苛立つ点としては登場人物のキャラクターが作為的過ぎる。この本の主人公・時田秀美も例外ではないが、山田詠美の書く男子はとにかく作り物臭い。カッコいいキャラクターを作ろうとしている魂胆が透けて見えて、とても滑稽だ。そして何より科白が不自然。あまりにもデフォルメされすぎているように思う。あらゆる「規範やモラリティーから逸脱しようとする高校生」というキャラクターは、本当は魅力的で大きな共感を呼ぶものだと思うが、肝心な造形が紋切り型過ぎて結局想定内の「不良」に留まっているようにしか見えなかった。一方で時田秀美くんが、魅力的な場面も沢山ある。本作では人間の身体性について考察をめぐらす場面が散見されるが、それがどれも共感できる。例えば、学校中でちやほやされている美少女についての友人との会話での、「○○さんだってうんこするんだぜ」みたいな科白だとか、いつも思想をぶっている友人が怪我をした際に「お前の好きなカミュのこと考えてみろよ」と冷やかす場面などなど、この小説では精神に対する身体の優位性についての記述が多くあり、恐らくこれがこの小説の本質なのではないだろうか。多くの学者や小説家が、精神活動があらゆるものよりも優位で高尚なものであるかのように振る舞っており、そういった人間達が書いている限り、「小説」もそういった類のイデオロギーに依拠しがちだ。山田詠美は、そういったインテリたちの神話に対するアンチテーゼをこの小説を通して立てている。時田秀美が、生きていく上で何よりも優先している「女の子にもてる」という目的も、「セックス」という身体性に変換され、実際にそのような記述もある。要するに「お前ら影ではみっともないセックスしてるくせに偉そうなこと言ってんじゃねーぞバーカ」みたいな。そんなふうに思う瞬間は結構ある。そして身体性を伴わず、センチメンタルでお洒落なセックスばかり書いている村上春樹なんかはやっぱり苦手なんだと思う。