Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『怒りの日』(カール・TH・ドライヤー)

Vredens Dag/1943/DK

 2008年、国内の上映権切れに伴い、カール・ドライヤー監督の5本の長編映画が最終上映された。『裁かるるジャンヌ』(1927)、『吸血鬼』(1932)、『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルーズ』(1964)という、今考えても垂涎のラインアップである。だが、当時の私は『怒りの日』の衝撃と興奮にすっかり取りつかれ、ほかの作品についてはほとんど印象がないというありさまだった。以来『怒りの日』は、現在に至るまで、私の浅薄な映画体験の頂点に君臨し、心の中でにぶく、暗い輝きを放ち続けている。
 『怒りの日』はキリスト教最大の汚点ともいえる魔女狩りを題材に取った映画だ。実在の魔女を描いた戯曲「アンネ・ペータースドッテル」を原作にしている。『怒りの日』が特異なのは、善と悪、聖と俗の境界があいまいで、複雑に絡み合っている点だ。明確なモラルが提示されないし、歴史の罪を告発しようとする姿勢もない。後世の人間が「後出しじゃんけん」で歴史に批評を加えるような傲慢さからドライヤーは距離を置く。
 ドライヤーという作家を論じるために、彼の生い立ちに触れておきたい。カール・ドライヤーは1889年、スウェーデンに住む裕福な地主が女中を身ごもらせた。女は地主一族の命令でデンマークにわたり、コペンハーゲンで秘密裏に男児を産んだ。カールと名づけられた私生児はドライヤー家に引き取られたが、その少年時代は決して幸福なものではなかったらしい。17歳で家を出たカールが養家を訪ねることは二度となかったからだ。はなればなれになった実母はさらに苦難の道を歩んだ。カールを産んだ後にスウェーデンに戻り、別の男性の子どもを妊娠したが、相手の男性に結婚を拒否され、中絶のために盛った硫黄で命を落とした。貧困と孤独の中で死んでいった母の運命をドライヤーは18歳のときに知ったとされる。母を死へと追い詰めた男性社会の欺瞞と抑圧は、その後のドライヤー作品の主題として繰り返し描かれることになった。男性主義の暴走として魔女狩り(じっさいには男性の犠牲者もいたとされるが)は、ドライヤーにとってあつかいやすいテーマだったのかもしれない。

 村の牧師館には初老の牧師アプサロンと年若い妻アンネ、そしてアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。情熱と欲望を持て余したアンネは若く快活な義理の息子に心惹かれ、マーチンもまた若い母親の妖しい魅惑にのめりこんでいく。こう書くと、本作が驚くほど通俗的でエロティックな筋書であることがわかる。禁忌的な欲望のドラマと濃い陰影をたたえた画面は、同時期のアメリカ映画で量産されたフィルムノワールにも通じる。
 魔女狩りという暴力的な狂気を背景に、田舎の素朴な牧師館にはただならぬ重苦しさがただよう。ふりこ時計が冷たくときを刻むなか、彫刻のようにみえる俳優たちが厳格な芝居を織りなしていく。魔女裁判や拷問、処刑の様子も『裁かるるジャンヌ』よりもはるかに冷酷な手つきで描かれ、壮絶だ。対してアンネとマーチンが禁じられた逢瀬を重ねる小川や野原は自然光と甘い旋律によっておおらかな官能をはぐくむ。『怒りの日』は、このふたつの世界によって構成されているといっていい。きびしく排他的な宗教観と若く情熱的な欲望との間で引き裂かれる人々の物語、といえるだろうか。ふたつの世界はしだいにテンションを高めていき、嵐の夜に劇的な衝突を見せる。観客は文字通りの「魔」を目の当たりにし、戦慄することになるのだが、照明、音響、カメラワークから登場人物の演技に至るまですべてが緻密に設計されており、息を殺すほかない。つづいて小川で演じられるアンネとマーチンの最後の逢瀬もまた、それまでとは全く違った風景を見せ、ふたりの中で何かが決定的に変化してしまったことを暗示する。

 『怒りの日』において本当に魔女が存在したかどうかは、最後まであいまいなままだ。アプサロンが突然死したのは、妻と息子の不貞を知ったことによるショック死なのか、それとも本当に魔女の呪いなのか。マーチンがアンネに惹かれたのも、若い男女のごく自然ななりゆきなのか、それともアンネの魔性によるものなのか。アンネを演じたリズベット・モビーンの「燃えるような瞳」は、そのどちらも一定の説得力を持たせている。むろんドライヤーは意図してあいまいさを残している。原作の戯曲はもっとはっきりとアンネを魔女として描いているからだ。
 しかしこうしたあいまいさがあるからこそ、不寛容で抑圧的な世界と対峙し、欲望し、やがては異形の者として敗れ去っていく女性の姿をアンネの物語は、魔女狩りという歴史上の特殊な出来事を超えた普遍性を帯びて、私たちを戦慄させる。『怒りの日』が封切られた1943年、すでにドイツに占領されていたデンマークでも公然としたユダヤ人狩りが開始された。魔女狩りの物語を通して、ナチスユダヤ人政策に抵抗する意図はおそらくドライヤーにはなかった。ただ同時期にアメリカ映画で起きたフィルム・ノワールの潮流と同じく、当時のデンマークがおかれた陰鬱な気分が色濃く作品に反映していることは間違いないだろう。スタッフはおろか、監督名すらクレジットされなかったこの映画は、ドライヤーと同じく抑圧と不寛容の時代が産み落とした名もなき私生児だったのかもしれない。そしてこのどうしようもないほど暗く、呪われた映画が、今も私たちの心を揺さぶるのは、世界が相変わらず抑圧と不寛容に満ちている証拠なのだ。

読んだ本

最近、家で映画見てても寝ちゃうんですよね。休みの日に映画館に出掛けるのもすごくおっくうで。それで頭を切り換えて本を読むことにしています。映画関係の本を何冊か読みました。

サウンド・オブ・ミュージック・ストーリー

サウンド・オブ・ミュージック・ストーリー

  • 作者: トムサントピエトロ,Tom Santopietro,堀内香織
  • 出版社/メーカー: フォーインスクリーンプレイ事業部
  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: 単行本
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名作『サウンド・オブ・ミュージック』の製作過程を資料や関係者の証言から詳細にレポートした研究本。監督が当初はウィリアム・ワイラーであったことや20世紀フォックスの経営不振で映画が頓挫しかけたこと、オープニングシーンのヘリ撮影にものすごくお金がかかるので失敗は許されなかったことなど興味深いエピソードが続出する。「そしてそれができる監督はただ一人だった…ロバート・ワイズである」「一人の女優に白羽の矢が立った…ジュリー・アンドリュースである」みたいなもったいぶった筆致がやや鼻につくんですが、おおむね面白く読めました。現代の観客は、この愛すべきミュージカルをビデオやテレビ放映で見ているからあまり意識しないけれど、公開された1965年当時『サウンド・オブ・ミュージック』はとても時代遅れな映画だった。ミュージカル映画は既に衰退していて、原作であるブロードウェイ版も感傷的としておおくの批評家から軽視されていた。1960年には『サイコ』が公開されているし、フランスではヌーヴェルヴァーグの若き才能が次々と革新的な作品を発表していた。若者はロックンロールを聴き、ビートニクの作家を読みふけり、ドラッグとフリーセックスをたしなんでいるのに、映画だけがカウンターカルチャーの波に乗り遅れていた。『サウンド・オブ・ミュージック』は映画の「時代遅れ」を象徴する作品としてしばしば取り上げられもする。にもかかわらず、今も多くの人々のこころをつかみ、励まし、その魅力は色あせない。誰がどう見ても負け戦なのに、この物語の普遍的な魅力を見抜き、製作に踏み切った人々の実話には自然と胸が熱くなりました。
怪獣少年の〈復讐〉 ~70年代怪獣ブームの光と影

怪獣少年の〈復讐〉 ~70年代怪獣ブームの光と影

いわゆる第2期怪獣ブームとよばれる70年代特撮ドラマを、作家インタビューとその時代を子どもとして過ごした筆者の原体験を交えてひもとく。ガメラでもゴジラでもウルトラマンでもそうだが、この時代の特撮ドラマは間違いなく子どもたちが主役だった。ゆえに「子ども向け」と片付けられ、まともな論評もされない時代もあったわけだが(実際私も『タロウ』の奥深さに気付いたのは大人になってからだ)、いまとなってはクラシック化している。個人的に興味深かったのはやはり第2期ウルトラシリーズを論じた章であり、とりわけシナリオ作家、田口成光氏の章が面白かった。市川森一氏や上原正三氏と比べて、田口氏に光が当たることはきわめて少なかったし、私自身も彼の作家性というものを意識したことがなかった。実は本書のタイトルにもなっている『帰ってきたウルトラマン』第15話「怪獣少年の復讐」も田口氏の作品。怪獣への恐怖とあこがれに引き裂かれる少年のアンビバレンツを表現した傑作だ。ナイーブな葛藤とトラウマ克服のドラマが、山際永三監督との二人三脚で鮮烈な映像表現とともに作り上げられていったことがわかり、ついついまた見返してしまいました。
 『帰ってきたウルトラマン』といえば「11月の傑作群」(第31〜34話)が有名だが、この4作も含めた中盤の作品群は(第21話「怪獣チャンネル」から第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」あたりまで)はウルトラシリーズ全史においても屈指といえるほど、傑作、意欲作、問題作が連打された黄金期といえる。そんななか、個人的に低評価だったのが、田口、山際コンビが手掛けた第29話「次郎くん怪獣に乗る」だった。「次郎くん怪獣に乗る」ってサブタイトルも間抜けだし、ジュブナイルとしても『タロウ』ほど洗練されていないようにおもえた。だが本書を読んで、次郎君が閉じ込められるステーションは胎内のイメージで、その中で好きな女の子の秘密(へその緒)を見るという性のイメージが忍ばせてあったことを知り、膝を打ったのであった。さらに『ウルトラマンA』で私の大好きな美川のり子隊員のメーン回、第4話「3億年超獣出現」と第22話「復讐鬼ヤプール」も田口氏のペンによるものだった。「3億年超獣出現」は美川隊員に中学時代から思いを寄せていた漫画家、久里虫太郎の暗い情熱に異次元人がつけこみ、久里の描いたまんがの通りに超獣が暴れるというストーリー。同窓会といつわって久里の屋敷にやって来た美川隊員が薬を盛られて眠らされ、監禁されるという展開は、幼い私に言い知れない恐怖と淡い興奮をもたらした。いわば性の目覚めともいえる作品ですね。田口氏が特撮番組のなかで意図的に性的なイメージを取り入れていたという話は興味深かった。 1981年生まれの筆者がリアルタイムで体験した平成世代の特撮について語った本。評論というよりエッセーに近くさっくりと読めます。これねー、自分の話読んでるみたいでちょっと怖かったですね。目新しい情報とかはほとんどないけど、子供のころに通ったレンタルビデオショップのにおいとか小学館怪獣図鑑の手触りとか教室内での会話とか…そういう幼少期の記憶そのものがサーって思い出されてくる。幼稚園から高校生くらいまでの自分と特撮ドラマの関わりを追体験するような。『ドラゴンボール』より『ウルトラマン』のほうが学校でばかにされる理不尽さとか「ノストラダムスの大予言」が妙に真実味を帯びていた話だとか、『ウルトラマンティガ』あたりから作家性を気にするようになった…といった筆者のエピソードは私自身の実体験とほぼ重なる。今のようにSNSどころかインターネットすらほとんど広まっていなかった90年代において、いつまでたっても怪獣だの秘密兵器だの言っている私は孤独だったし、同じようなことを考えている同世代がいるとは知る由もなかった。わけても思うのは、初期ゴジラ平成ガメラを引き合いにVSシリーズを貶めてきた「上の世代」の言説が、VSシリーズを愛していた子どもたちをいかに混乱させ、傷つけたか、ということだ。著者はあとがきで「私たちの世代の作品に、若い人たちが距離を感じてしまうような批判はしないように気をつけたい」とつづる。確かに私も新しいウルトラマン仮面ライダーのコンセプトやデザインに困惑することもあるのだが、新しい世代のヒーローや怪獣に夢中になっている子どもたちもきっといる。自分は大人になってしまったが、現代の子どもたちと新世代の特撮文化が育む蜜月は見守ってあげたいとおもう。
映画系女子がゆく!

映画系女子がゆく!

ガールズムービーや女性映画におけるヒロインたちの性格や心の動きにフォーカスした映画評。イーニド(『ゴースト・ワールド』)、ニナ(『ブラック・スワン』)、キャリー(『キャリー』)、イレーナ(『キャット・ピープル』)、オリーブ(『小悪魔はなぜモテる?!』)、メイビス(『ヤング≒アダルト』)、名美(『天使のはらわた』)、ブリス(『ローラーガールズ・ダイアリー』)、アメリ(『アメリ』)、サチ子(『害虫』)…いずれも忘れがたい、思い出すと胸がきゅっと締め付けられるようないとおしい女性たちである。真魚氏は、ていねいな演出やシナリオ考察に加えて、筆者自身の体験や出会った女性たちと結び付けることで、一筋縄ではいかない彼女たちの心情をすくいとっていく。私は男性だから、映画の中の彼女たちと笑い、泣いたとしても、その心の動きが謎めいていて、よくわからないこともある。真魚氏の批評を読み、こうした謎が言語化され心の中になじんでいく心地よさがあった。真魚さんの文章はブログ時代から読んでいましたが、それでもちょっと新しい感覚で楽しかったです。『プラダを着た悪魔』は好きなんだけど、なーんかモヤモヤしちゃうのが言語化されていて、とてもスッキリしました。映画を愛するということは、その映画のなかの登場人物を愛することとほぼ同義なのだなと気付くことができる1冊でした。
ただある程度心の余裕をもって読んでいられるのは私が男性だからであって、「文科系男子」へと射程を移した第7章「それで、そのとき文科系男子は何しているの?」はなかなかに痛いものがありました。ここで取り上げられる『(500)日のサマー』を当時付き合っていた恋人と見に行き、私がトムを、彼女がサマーを擁護して微妙な空気になった思い出がある。今回、10年越しにサマーは、そして彼女はこんなことを考えていたのかと理解できた。ちなみにその彼女と決定的に別れた夜、1人で『ブルーバレンタイン』見たというオチもあります。
 自分は文化系女子ではないけど、交際してきた女性は文化系女子ばかりなので、映画を通じて彼女たちが何を考えていたのか、どうしてあのとき怒っていたのか、泣いていたのか、気づかされるときがある。その意味で真魚氏の本は、私にとって過去の失敗を突きつける地獄巡りのようでもあった。ただ、そんなふがいない私にも優しく諭してくれる。「別れた相手に改めて何かをしてあげることはできない。だとしたら、そこで負った心の傷で成長し、次の恋人に以前はできなかった配慮ある愛し方をするしかない。傷つけてしまった当人には何もできず、次の恋人を幸せにするというのは妙なようだけれど、愛の流れというものは誰もがそうやって、次へ次へと渡していくしかない。そして次の恋愛では、前と同じ過ちを犯さないようにすればいい」。かつての恋人をふと思い出し、急に電話をかけて謝りたくなるときが、たまにある。そのたびにそれは所詮は自分のエゴでしかなくて、彼女たちは彼女たちの幸せを生きているはずだからと思いとどまる。積み重なっていく後悔と選ぶことのなかった人生を引きずりながら、それでも今の恋人に対しては少しはましな男になっているとおもいたいし、いまの毎日が最良の選択だったと信じるしかない。いつまでたってもうまく恋愛できている気がしない自分にとって、映画とおなじく勇気づけられる批評でした。

『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ)

Carrie/1976/US

 私が通っていた中高一貫の私立校では、中学までが男子校で、高校に上がると少数の女子が入り共学化した。私は高校進学後も男子クラスだったので、結局女子と会話ができたのは中高6年間で数えるほどしかなかった。こうした経験はその後の私の人生に少なからず影響したようにおもう。自分の性格を棚に上げるつもりもないし、責任を転嫁するわけでもないけど、女性と会話するのにはいまだ苦手意識がある。だけれどもっと厄介だったのは、同じ男性への不信感が身についてしまったことだった。3年間異性から隔絶していた男たちは急に女を意識して、洗面所で頻繁に髪の毛をセットしたり、制服をだらしなく着崩したりし始めた。女子部員の多い吹奏楽部の希望者が増加し、仲の良かったバスケ部員たちはマネージャーの女の子をめぐって仲間割れした。そうした同級生の姿は、率直に言って見苦しかった。私も人並みに女子に興味があったし、話をしてみたくもあったけど、こんなに醜く、あさましい「求愛競争」に加わるなら死んだほうがましとさえおもった。
 だから、高校の夏休みにレンタルビデオで『キャリー』を見たときの胸がすくような快感は忘れられない。学校ではいじめられてばかりで特別あつかいされたことなんて一度もない。家ではキリスト教福音主義者の母親による息が詰まるような抑圧が待っている。そんなキャリー・ホワイトが一瞬だけつかみかけたささやかな青春の輝きも、クラスメートの心ないいたずらで無残に奪われてしまう。封じ込めていた力を解放して、キャリーはプロムを血祭りにする。血まみれで目を見開き、鮮やかな炎の背にしたキャリーが、うんざりするほど醜い学校空間に復讐する女神に見え、私は心のなかで快哉をさけんだ。
プロムは男女がつがいをつくり、最も魅力的なカップルをたたえる。こんなくだらない風習が日本にはなくてよかったと胸をなで下ろしたものだが、日本の高校だっておのおのの性的魅力や体験を、試し、比べ、競い合う理不尽な世界におもえる。デ・パルマは、まるで自然界の動物たちのようなきびしい「性の戦場」としてハイスクールを描いている。

 バレーボールに興じる女子高生たちを俯瞰でとらえたカメラが、ひとりの少女へと近づいていく。おどおどとしたそぶりの少女は案の定しくじり、クラスメートからののしられる。あわれな主人公の境遇を示す短いオープニングシーン。続くセカンドショットのイメージもまた鮮烈だ。ピノ・ドナッジオの流麗な旋律にのせて、ロッカールームで着替える少女たちをスローモーションでとらえていく。シャワーの湯気の中から浮かび上がってくる裸の少女たち。ルノワールの絵画のように生々しい官能が画面に充満する。その奥でシャワーを浴びるキャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)のからだは青白く貧相で、いかにも魅力に欠ける。だがキャリーのふとももを一筋の血がつたいおちたことで、彼女もまたきびしく、醜い「性の競争」に加わらなくてはならないことを告げる。自分の経血に取り乱したキャリーを、担任のコリンズ先生(ベティ・バックリー)が落ち着かせようとするが、カメラは先生の乳房をクローズアップし、2人の性的な対比を強調する。実際の役者は撮影時、2歳しか変わらなかったわけだが。

 キャリーが初潮すら知らないほど性知識に乏しいのには理由がある。母親マーガレット・ホワイト(パイパー・ローリー)が女性の成長(性徴)を罪とみなし、まともな性教育をしてこなかったからだ。『ハスラー』(1961年、ロバート・ロッセン監督)から25年ぶりハリウッドに復帰したパイパー・ローリーはこの狂信的な母親役でふたたび話題をさらった。50年代にはダグラス・サーク監督のコメディ映画(『突然の花婿』『ぼくの彼女はどこ?』=いずれも1952年=)にも出演。ここでは逆に欲深い家族に翻弄される娘を演じている。マーガレットが自宅に戻る場面では古くなった「売り家」の看板が隣に立っていて、ホワイト家が人が地域から孤立していることをうかがわせる。
 キャリーをいじめていたスー(エイミー・アーヴィング)は偶然、キャリーの特殊な家庭環境を知ることになる。反省し、ボーイフレンドのトミー・ロス(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムに誘うように提案する。一方、いじめの主犯格だったクリス(ナンシー・アレン)はキャリーへの逆恨みを募らせ、ボーイフレンドのビリー・ノーラン(ジョン・トラボルタ)と共謀し、復讐計画を練る。デ・パルマは、映画の中のハイスクールを一種の女系社会として描く。男子は女子の命令にしたがう傀儡に過ぎない。

 キャリーがトミーの招待を受け入れると、映画は学園青春ものへと大胆に舵を切る。たどたどしい手つきでグロスの色をためすキャリーの姿や、パーティーへ着ていく服を選ぶトミーたちの様子などの場面は、この映画がホラーであることをしばし忘れさせてくれる。トミーの友達がボンクラっぽいところもいいんだよね。いじめっ子側のノーマ(P・J・ソールズ)がトレードマークのキャップを律義にパーマ機の上にちょこんと載せているのもくすりとくる。
 私が特に気に入っているのは、トミーとキャリーがプロム会場に到着した場面だ。緊張したキャリーは意を決して車のドアを開けるが、何かを思い出してすぐに閉じてしまう。祈るような面持ちで、じっと待っていると、運転席から回り込んだトミーが助手席のドアを開けてくれる。期待と不安が入り交じる乙女心をシシー・スぺイセクがみごとな演技で表現している。トミーが開けたドアはキャリーにとって長い間閉ざされていた他者への扉だ。あまり言いたくないけど、リメーク版『キャリー』(2013年、キンバリー・ピアーズ監督)にどうしても物足りなさがあるのは、こういうディテールなんだよなあ…。

 それにしても驚嘆すべきはキャリーの変貌ぶりである。本当にプロムの会場で最も美しい女性に見える。はじめはスーの命令でいやいや付き合っていたトミーも、だんだんとキャリーに惹かれ、ダンスをしながらふたりはキスを交わす。甘くとろけるようなメロディときらきらしたライティング。ふたりの周囲をぐるぐると回るカメラはもちろんデ・パルマ監督が心酔する『めまい』(1958年、アルフレッド・ヒッチコック監督)へのオマージュだ。文字通りめくるめく幸福の瞬間に、このまま、映画が終わってしまえばいいのにとさえおもえる。
 「ベスト・カップル」の投票用紙で自分たちの名前に印をつけるキャリー。クローズアップになった印は「十字架」として象徴的に映し出され、照明が赤く染まる。ここから画面も、音楽も、ふたたび恐怖映画に転調し、映画史に刻まれるクライマックスが幕を開ける。流れるようなカメラワークと計算し尽くした編集、俳優たちの立ち回りとドナッジオのスコアが絡み合い、突き進んでいく。この瞠目すべきシークエンスに、デ・パルマは撮影に2週間、編集に4週間をかけ、心血をそそいだ。「デ・パルマ・ギミック」とでも呼びたくなる精密機械のようなクライマックスの演出方法は、その後の彼の作品群に引き継がれていく。
 ノーマが投票用紙を集め、ボーイフレンドとキスするふりをして、あらかじめ準備した別の投票用紙とすり替える。それを審査員の先生たちに手渡し、ステージ下に隠れたクリスとビリーに合図を送る。カメラがステージ裏に移動するとスーがやってきて会場をのぞきみる。今度はスーの手元にあるロープをたどってカメラが上昇し、ステージの上に仕掛けられたバケツをとらえる。司会の生徒がベストカップルの名前を読み上げると、カメラはバケツから、トミーとキャリーに視線を移す。この間はすべてが切れ目のないワンカット。巧妙かつ精緻なカメラワークが、逃れられないわなと重なり、切実さを増す。ステージ上で拍手喝さいをあび、幸せをかみしめるキャリー。「復讐のとき」を待ちわびてロープを握りしめるクリス。仕掛けに気がつくスー。会場にいるはずのないスーの姿をみとめ、不審がるコリンズ先生。それぞれの思惑と視線が編みこまれ、スローモーション映像とストリングスの演奏が、緊迫感を高めていく。

 そして、ついにその瞬間が訪れる。血まみれになったキャリーの頭の中には「みんなの笑いものになる」という母親の予言がこだまし、さげすまれてきたみじめな記憶がフラッシュバックする。キャリーを思っていたコリンズ先生やスーも残酷なわなに貢献してしまった皮肉。デ・パルマお得意のスプリットスクリーンで皆殺しの地獄絵図が展開する。自動車でキャリーをひき殺そうとしたクリスとビリーも返り討ちにあい爆死。
 呆然として家にたどり着いたキャリーはようやく正気に戻り、バスルームで血を洗いながら涙を流す。圧倒的な破壊の力を見せてもなお、彼女はか弱く、孤独な存在に過ぎない。悲劇はそれだけに終わらなかった。「ママの言う通りだった」と母親にすがりつくキャリーの背中に、マーガレットはナイフを突き立てる。母親もまた哀しい性の犠牲者であった。キャリーのテレキネシスではりつけにされ、聖セバスチャンの殉教よろしく快楽に身をふるわせながら絶命する。キャリーはそのなきがらを抱きしめ、今となってはたったひとつの居場所となってしまった懺悔室で心中するのだった…。

 惨劇から唯一生き残ったスーがトラウマと罪悪感に苦しみ続けるところで物語は終わる。ラストのショッカー演出は『13日の金曜日』(1980年、ショーン・S・カニンガム監督)など多くのホラー映画で模倣された。当然、私も死ぬほどおびえた。でも単に驚いただけではないのだ。映画を見ながらすっかりキャリーと同じつもりでいた私が、この瞬間に気づかされた。私はキャリーのようないじめられっこではなかった。むしろその逆だったのだ。みなから無視され、からかわれ、さげすまれていたクラスメートを、私は助けなかった。一緒になって笑いもした。友達にねつ造ラブレターを送り付ける計画に加担したことさえある。にせのラブレターを受け取った彼が小躍りするのを見たとき、私は笑っていた。
 プロム会場をつつむ業火に、私もまた焼かれるべきだった。そして悪夢にうなされるスーと同じく、取り返しのつかない過ちに苦しむべきだった。何度見たって映画の結末が変わらないように、私の後ろめたい青春もやり直すことはできない。できることは、この孤独な少女の物語をくり返し見ることだけ。そして、いつも思い出す。すべてが醜く、くだらなく見えた学校を。周囲を見下すことしかできなかったおろかな十代を。ひきょうな私が手を差し伸べなかった、今は名前も忘れてしまったキャリーたちを。

Good bye 2016

記録用にことしよく聞いたCDやトラックの振り返りを。もうなんかますますJPOPしか聞かない感じになってきました。


いちばん聞いたアルバムは「Off The Wall」のリマスター。特典にチョークが付いてて困惑したが、ドキュメンタリーBlu-rayは最高だった。これまでのディスクはオリジナルの収録曲のあとにインタビュー音声などのボートラがくどくどとついていて邪魔だったのだけれど、今回は潔くオリジナルのまま収録。車の中で聞きやすくなりました。

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『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー)

The Texas Chain Saw Massacre/1974/US

あまり怖いものが得意ではない恋人が『悪魔のいけにえ』の爆音上映に付き合ってくれた。「ほんとうに大丈夫?」と何度か念押ししていたけれど、見終わったあとは案の定青ざめた表情で「怒らないで聞いてほしいんだけど…苦手」と肩を落とした。そうだよなあ、そうなるよなあ。でもなんだかはっとさせられもした。くりかえし見ているうちに、すっかり忘れてしまっていたけれど、私も初めてこの映画を見たとき、安酒を飲み干したような激しい悪寒と吐き気に襲われたのだった。『悪魔のいけにえ』の今日的な評価とか映画史的な位置づけなど知ったこっちゃない人間の、ごくまっとうな反応に触れたことで、この映画がほんらい持っている「毒」を思い出した。
 『悪魔のいけにえ』の魅力を伝えることは難しい。私も好きな映画について、へたくそなりに言語化しないと気が済まないたちだけど、不快な金切り声と野蛮な暴力が吹き荒れるこの映画を前に、お行儀のいいモラルやロジックは無効化してしまった。それなのに、この映画が心に残した傷跡は、いつまでもズキズキとうずき、うみとなり、そのうちかけがえのない映画体験に変わっていた。

 酷暑につつまれた真夏のテキサスで、何者かが墓を暴き、遺体でオブジェをつくる異常な事件が頻発していた。太陽の表面爆発をとらえたタイトルバックにラジオのニュース音声が重なる。石油施設の爆発、蔓延する伝染病、若者の自殺、警官への暴行…といやなニュースばかりが報じられる。焼けつくようなアスファルトの上でアルマジロが野垂れ死に、そのうしろを一台のバンが通り過ぎていく。あまりの暑さにアメリカ全体に狂気と暴力が充満しているような強烈なオープニングで、『悪魔のいけにえ』は幕を開ける。泥沼化するベトナム戦争を背景に、じっさいこの時期のアメリカには狂気と暴力が吹き荒れていた、と私はおもう。
 バンには、サリー、ジェリー、フランクリン、カーク、パムの4人の若者が乗り組み、かつてサリーが住んでいた家へと向かっている。サリーとジェリー、カークとパムは恋人同士で、車いすに乗ったフランクリンはサリーの兄(弟)だ。ハイウェイの脇には、牛を殺し、食肉へと加工する工場が建っていた。屠られる牛たちの糞尿とよだれ。まがまがしい「死のにおい」がバンのなかに侵食してきたとき、若者たちは泥沼のような悪夢にはまりこんでいく。きちがいじみたヒッチハイカーに遭遇し、ガソリンが尽き、川の水は涸れ、不自由な巨体を持て余したフランクリンが不満をたれながす。暑さと渇きが画面をむしばみ、じりじりとした苛立ちが募っていく。
 16ミリフィルムの粒子の粗い画面から、一見してプリミティブで粗削りな印象があるが、くり返し見ていると、その編集や音響設計は細部まで計算し尽くされていることに気がつく。『悪魔のいけにえ』には若きフーパーの才能と心血がほとばしっているが、決して若さと勢いだけで作られたわけではないようにおもう。レザーフェイスの初登場シーンは、撮影、編集におけるフーパーの天才が味わえる名場面だ。極限まで煮詰めた狂気と暴力が一気に噴き出し、映画は加速度的にドライブしていく。

 ガソリンを譲ってもらうため、カークとパムは白い家を訪ねる。うなりを上げる自家発電機、木にぶらさげられた奇妙なオブジェ、乾いた音を立てて転がり落ちる人の歯。カークが玄関から中をのぞくと、奥の部屋の壁に牛の頭蓋骨が飾られている。平凡な家のすきまから、完全にヤバいものがだだ漏れている。観客からすれば、もう明らかに「入っちゃダメ」って感じがしてる。それなのにカークは家の中に足を踏み入れてしまう。廊下でつまづいたとき、ほんとうに突然、なんの脈絡もなく「やつ」が登場する。画面がカークの主観ショットに切り替わり、カメラは肉屋のエプロンを身に着けた大男をゆっくりと見上げる。映画史を代表する殺人鬼、レザーフェイスのお出ましだ。次の瞬間、まるで牛をたたき殺すようなすみやかさで、カークの脳天にハンマーが振り下ろされる。昏倒し、けいれんを起こすカークに、これまた冷静な手つきでとどめの一撃を食らわせる。この身もふたもない手際のよさ。人を殺すというより、ものを壊すような即物性に慄きながら、私たちは理解する。ああ、この大男にとって私たちは人間ではなくて、一匹の動物…屠られる肉塊にすぎないのだな、と。

 パムもまた「魔の家」へと引き寄せられていく。ブランコの下をくぐりぬけ、パムの背中を追い続けるカメラが、夏空と白い家を映し出す。劇中でもっとも恐ろしく、美しいショットのひとつだ。私たちもまた、この家の磁場から逃れられない…そんな気持ちにさせるし、まるで家の方からこちらに迫ってくるようにも見える。もはや抜けるような夏の空も、牧歌的な白い家も、つい数分前とは違ってまがまがしいものに変わっている。家に足を踏み入れたパムは、おびただしい人や動物の骨でつくられた異常な芸術作品を目にする。美術のロバート・A・バーンズが作り上げたこの部屋は、おぞましくも独自の美意識を感じさせる。吐き気におそわれたパムはすぐさまレザーフェイスにつかまり、またもや家畜のように食肉用のフックに吊るされる。そして目の前では恋人がチェーンソーで解体されている。『悪魔のいけにえ』には鮮血や切り株といった直接的なゴア表現はほとんどないが、見る者の痛覚は刺激される。「見せない効果」を熟知した恐怖映画の正統なマナーが貫かれているんですよね。

 夕暮れ時にはジェリーが白い家を訪ね、レザーフェイスの犠牲になる。ジェリーを撲殺したあと、窓際に座って頭を抱えるレザーフェイス。あきらかに途方に暮れていて、「なんで俺がこんな目に」とでも言わんばかりだ。レザーフェイスの意外な臆病さが垣間見えて、映画全体も奇妙なユーモアを帯び始める。この場面を契機として、物語の主役は5人の若者たちから、得体の知れない殺人一家にシフトしていく。じっさいすぐ後にフランクリンもあっけなくレザーフェイスに殺され、以降サリーはほぼ最後まで絶叫し、逃げ回っているだけだからだ。
 反対にはじめは狂った異物でしかなかったレザーフェイスやヒッチハイカーは、彼らなりの倫理観や哲学、常識の中で生きていることが明らかになってくる。レザーフェイスはサリーの絶叫にびっくりしたり、ドアを壊したことを兄のコックに叱られたりと、ほとんど臆病者のようだ。人皮マスクや服装も、肉屋スタイルだけではなくて、料理をするときは母親風、食事をするときはスーツといった具合に、彼なりのこだわりをうかがわせる。フランクリンが使っていた車いすが、きれいに畳まれてキッチンに置かれているのもいい。「レザーフェイスが片付けたのかなあ」と想像するとなんだかほっこりした気持ちになる。『悪魔のいけにえ』が今も色あせない魅力を放っているのは、レザーフェイスをはじめとする狂った殺人一家が、愛すべき人間くささをまとっているからではないか。
 細かいしぐさやせりふ、小道具から一家の「人間性」がのぞき、こわいと同時に、そこはかとなく可笑しい。この映画をコメディとして見る人もいるとおもうし、じっさい作り手も意図して笑いの要素を取り入れていた。映画はどんどん悪ノリを増し、恐怖と笑いがせめぎあう狂ったパーティーへとなだれ込んでいく。切り傷からサリーの血をチュウチュウと吸いながら爺様が軽快に踊りだす。気絶したサリーが目を覚ますと、今度は干し首のランプやニワトリの頭で飾られたテーブルで一家が食事しているという、さらに狂った光景が広がっていた。ふたたび絶叫するサリーと歓喜の声を上げる一家…見ているこっちがおかしくなってきそうだ。サリーの目の前にはごていねいに食器が並べられている。レザーフェイスが準備したのかな、と想像できてやっぱりちょっと笑える。

隙を突いて逃げ出したサリーが、窓を突き破り、ついに家の外に脱出する…!文字どおり目が覚めるような鮮烈な場面転換。夜は明けて、悪夢は終わろうとしている。サリーを追ってきたヒッチハイカーはトレーラーに豪快に轢殺され、レザーフェイスはチェーンソーで自分の太ももを切って悲鳴を上げる。命からがらに逃れた血まみれのサリーは、けたけたと高らかに笑う。彼女もまた一家の狂気にからめとられてしまったのだろうか。そして、映画史に刻まれるラストシーンがくる。朝日をバックにチェーンソーを振り回しながら踊るレザーフェイスを映し、画面が唐突に暗転。ようやく訪れた暗闇と静寂の中で、私たちは安堵のため息をつく。だけれど、83分で脳裏に焼き付いた悪夢からは、もう逃れることができない。

2015年のおわりに(音楽編)

もうことしも暮れですね。ことしからオールタイムベスト映画についてのレビューを書いていきます、なんて息巻いていましたがいそがしくてほとんど更新できませんでした。ははは。
ことしはあまり映画が見られなくて、そのぶん音楽を聞くことが多かったです。あと特に日本の音楽をめちゃくちゃ聞きましたね。一時期はJポップなんてまったく興味なかったし、言葉じたい恥ずかしくて言いづらかったけど、別にいいなと思えるようになりました。丸くなったんですかね私も。そんなわけで、新譜旧譜問わずことしよく聞いたアルバムをまとめておきます。順不同。

Blur『the Magic Whip』(2015)

The Magic Whip

The Magic Whip


正直、もうブラーにお金を使うことはないだろうくらいの覚悟でボックスセット買ったので、新作リリースのしらせには仰天した。「12年ぶり」という言葉もなんだか感慨深かった。12年…。「Think Tank」のリリース年に生まれた子供が小学6年生になっている。私は高校生だったけど、30歳になってしまった。しかし肝心の内容は12年という歳月を感じさせないまぎれもなくブラーなアルバム。これまでのディスコグラフィの中でどのアルバムの後においても、それなりに納得してしまいそうな。どのアルバムの要素もちりばめられたアルバムです。My Terracotta Heartがお気に入り。

Snoop Dogg『Bush』(2015)

Bush

Bush


正直スヌープに興味持ったことなかったんですが、試聴してよさげだったので買いました。ファレル・ウィリアムズがプロデュース、スヌープはほとんどラップしてない感じで(笑)よくもわるくもファレルの音になっている。個人的には昨年のファレルのアルバムよりもよかったです。ただ旧来のスヌープのファンはどう思ったんだろう…。

トロールズ『Renaissance』(2015)

Renaissance

Renaissance


今までさまざまなアーティストや文化人の口からその名を聞いていたが、音源をライブ会場でしか売らないためにまったくどんなバンドかつかめなかったペトロールズが結成10年にして初めてフルアルバムをリリースした、という事実。地味にニュースでした。

スチャダラパー『1212』(2015)

1212 【DVD付初回限定盤】

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自分の立つ場所でリズムを刻み、ライムをつぶやけば、もうそれは立派なヒップホップなのだ。おっさんにはおっさんにしかできないラップがあると教えてくれるSDPの最新作。変わらず笑わせてくれて、変わらず勇気をくれる。

星野源『Yellow Dacer』(2015)


アイドル的な人気も含めて完全に21世紀のオザケンと化している星野源の4枚目。ルーツである黒人音楽をこれまで以上に打ち出しつつも完全に「イエローミュージック」。マイケル・ジャクソンにささげた「SUN」は聞いていると落涙してくる。マイケルの「Off The Wall」と松田聖子のレコードの間におきたい。おおげさでなくてそんなアルバム。これは事実上ことしのベスト、かなあ。

Base Ball Bear『C2』(2015)

C2

C2


前作で完全に打ちのめされたベボベのメジャー6作目。タイトルから「第2ステージ」に進むメンバーの気概が感じられます。もちろん内容からも。エイティーズディスコ感の『それってfor誰』と粘り気のあるベースラインにしびれる『文化祭の夜』、黄金メロディーのギターポップ『不思議な夜』とシングルが続き、どんなアルバムになるんだと思ったけど、予想以上に正面から「日本語ギターロック」に根ざしていて驚いた。もっと「黒い」アルバムになると思っていた。そういう意味では彼らも「イエローミュージック」の誠実な実践者といえるのかもしれない。SNS社会への痛烈な皮肉に始まるアルバムは、しかしコミュニケーションへのかすかな希望へと着地する。社会への観察眼と自己批評を行き来する歌詞はもはやヒップホップ的。

荻野目洋子『ヴァージ・オブ・ラヴ』(1989)

ヴァージ・オブ・ラヴ(日本語ヴァージョン)

ヴァージ・オブ・ラヴ(日本語ヴァージョン)


ナラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした88年作「Verge Of Life」を日本語で収録しなおしたもの。レコーディングのため再度渡米したというエピソードが実にバブリー。内容もバブリーで最高です。こんなアルバムがあったの知りませんでした。ナラダ・ウォルデンも脂が乗りきっていい。やや経年劣化はいなめないが、『Is It True』、『Postcard From Paris』はいまでも通用するでき。

Alton Mcclain & Destiny『It Must Be Love』(1978)

クレイジー・ラヴ

クレイジー・ラヴ

  • アーティスト: アルトン・マクレイン&デスティニー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2014/05/21
  • メディア: CD
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ユニバーサルのフリーソウル名盤が多数リイシューされたが、もたもたしているとあっという間に廃盤になってしまった。もっとほしいアルバムたくさんあったのだが。

Sugar Babe『Songs』(1975)

いわずとしれた名盤の最新リマスター。さすがにこだわりぬいた音質でした。

松田聖子『Sqall』(1980)

SQUALL

SQUALL


ことしは聖子ちゃんめっちゃ聞きました。『ユートピア』や『Pineapple』もいいですが、やっぱりファースト1番好きです。ひとつひとつの音からもう松田聖子という才能を祝福し、うれしくて仕方がない感が伝わってくる。

松田聖子風立ちぬ』(1981)

風立ちぬ

風立ちぬ


だいたい夏と冬にそれぞれ聞きたい名盤を毎年2回、当然のように連打しているのがどうかしている。A面はすべて大瀧詠一、詩も松本隆が初めて全曲を手掛け、ひとつの頂点を極めた傑作です。好きすぎる。

SPEED『Starting Over』(1997)

Starting Over

Starting Over


私の中の「女子」の概念が形になったらたぶんこのアルバムになるんじゃないですかね。

おおたか静流にほんごであそぼ 童謡』(2014)

NHKにほんごであそぼ 童謡(どうよう)

NHKにほんごであそぼ 童謡(どうよう)

NHKの教育番組「にほんごであそぼ」の童謡コーナーを音源化。ずっとパッケージ化を待ち望んでいたのだけれど、いつのまにかリリースされていました。事実上おおたか静流のアルバムですね。ボサノバ調の「スキー」、調子っぱずれのピアニカがかわいい「マーチング・マーチ」など意表をつくアレンジもいい。「朧月夜」「鉄道唱歌」「ふるさと」など日本語詞のうつくしさに陶然とする。20曲もあって38分。もうこのアルバムしかいらないと思っていた時期ありました。

Sleeper『Smart』(1995)

Smart

Smart


ひょんなことから高校時代に編集したUKロックのミックスアルバムを発見して、なんとなくブリットポップを聞き直していた。そんな中再発見したバンド。アマゾンのレビューがすごくよかったのでそのまま引用します。「最近よく、ブリットポップを見直すというお話を雑誌やらで見かけ、20代の洋楽好きのワタシとしては懐かしいかぎりです。ていうか、ブリットポップって要はオアシスそのものだったよな?というような、どこかでLive foreverがかかれば合唱し、 Wonder wallの咳払いでドキンとしちゃうような方に聞いてもらいたいアルバムですね、これは。作詞・作曲・ボーカルのルイーズ嬢はとても魅力的なバンドの紅一点。おみこしじゃないですよ。極上のメロディにざらついたギターがグッドスメル!癖になるハスキーボイスで捨て曲無し!色あせない名盤です。このアルバムには間違いなく、あのころの奇跡的な空気が詰まりまくってます、完全なブリットポップの一つをここに発見してください。映画の中で一番かっこよかったな、復活希望。」

V.A.『The Breakfast Club: Original Motion Picture Soundtrack』

ブレックファスト・クラブ-オリジナル・サウンドトラック

ブレックファスト・クラブ-オリジナル・サウンドトラック

  • アーティスト: サントラ,シンプル・マインズ,エリザベス・デイリー,ワン・チャン,ジェシー・ジョンソン,カーラ・デビト,ジョイス・ケネディ,ステファニー・スプライル,キース・フォーシー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2015/10/07
  • メディア: CD
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ことしは『ブレックファスト・クラブ』の公開30周年のメモリアルイヤーってことで、サントラの再発や新たなマスターのBlu-ray発売など何かと見返すことも多かったです。

そのほかよく聞いた楽曲。
守谷香『マジカルBoy マジカルHeart』

土岐麻子『セ・ラ・ヴィ〜女は愛に忙しい』

MISIA『つつみ込むように…』

Klique『I Can't Shake This Feeling』

Nona Reeves『パーティは何処に?』

Honey and the bees『Love Addict』

シブヤ1997―『ラブ&ポップ』(庵野秀明)

Love & Pop/1998/JP

 『新世紀エヴァンゲリオン』第1話の時代設定は2015年6月22日。つい先日ようやく過ぎたばかりだ。セカンドインパクト使徒襲来もなかったか…と感慨にひたりつつ、はたして今の日本に碇シンジのような少年が存在しうるのかと考えた。もちろん現代にもシンジ君のようにナイーブな中学生はいるのだろう。だが『エヴァ』があれだけ熱狂的に迎えられたのは、シンジ君の抱える屈折があの時代、格別に共感できるものだったからだとおもう。 
 庵野秀明監督が初めて手掛けた実写映画『ラブ&ポップ』は1997年8月からわずか一か月で撮影され、翌年の1月に公開された。原作は、当時の社会現象だった女子高生の援助交際を取材した村上龍の同名小説だ。
 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(いわゆる『夏エヴァ』)の公開は同年7月19日。「時代の寵児」だった庵野が、流行のトピックスで映画を撮る。とんだ「生もの企画」だ。実際、今の目で『ラブ&ポップ』を見返すとある種の経年劣化を感じずにはいられない。DVカメラを駆使した「斬新な」映像と編集、内省的なモノローグ、ルーズソックス、エリック・サティ川本真琴、ダンス、パソコン、歌の大辞テンダイヤルQ2…すべてがなつかしく、そして色あせている。それでも、いやだからこそ、この映画はほとんどドキュメンタリーのような生々しさで見るものに「97年」の気分を伝える。
 
 『ラブ&ポップ』は、東京郊外に住むごくふつうの女子高生、吉井裕美(三輪明日美)の一人称で進行する。裕美が友人らと過ごす休日の1日を、回想や幻想を交え、時系列で語っていく。その1日とは1997年7月19日。そう、「夏エヴァ」の封切日だ。
 37歳の内向的なおじさんが心身ともにぼろぼろになりながら、ようやく完成させた作品の公開初日、女子高生たちは能天気に渋谷に水着を買いに出かける…。この残酷な断絶。わざわざこの日を舞台に選んだことに、「おじさんと女子高生は理解しあえない」という庵野の冷徹で謙虚な前提が透けて見える。だいいち原作にしたって所詮は「おじさんが書いた女子高生の物語」なのだ。
 決して理解しあうことはないように見えるおじさんと女子高生は、しかし「援助交際」という特殊な結びつきの中で近接する。村上龍は女子高生の視点を借りて、日本中の誰もが抱えていた疎外感、空白感を切り取った。そして当時、それを誰よりもクリアに視覚化できた映像作家が、おじさんと女子高生の交差点に立つ庵野だったとおもう。
 一見すると、裕美の「主観」に見えるが、巧みに「客観」が介在する。カメラは、裕美の衣服や電子レンジの中などあらゆる場所に忍び込み、彼女の日常を「観察」する。主役の三輪本人ではなく、映画監督の河瀬直美がモノローグを担当することで微妙なズレを生んでいる。
 過剰な情報を受け取りながらも、見る者は主人公・裕美の心の中になかなか立ち入ることができない。それどころか、彼女の生活と心を、物陰から覗き見ているかのような居心地の悪さがつきまとう。会話シーンを中心に「ナメ」の構図が多用されるのも、作品の窃視性を際立たせる。
 こうした居心地の悪さは、作品の主要なテーマにも関わっている。「さびしさ」こそが本作の基調になっているからだ。市川崑に直球のオマージュをささげたタイトルクレジットの直後、裕美のこんなモノローグが入る。 

世の中のものは唐突に変わるときがある
男も女も 大人も子どもも お父さんだって2回変わった人がいる
生きていた人もある日、お墓や写真に変わる
目に見える形がいつの間にか消えてなくなっていく
心の中のかたちも変わっていく
あいまいになっていく

 物事や感情が時とともに乱暴に移り変わっていくことの怖さとふしぎさ、そしてさびしさ…。移ろいゆくものへのささやかな抵抗として裕美はカメラを手にする。
 消費と享楽の時代が終わり、急速に情報化が進んだ90年代、人々は「変わらないもの」を失い、孤独を深めていった。ある人は援助交際に、ある人はカルト教団に「変わらないもの」を求めた。裕美の高校の友達、ナオ(工藤浩乃)、サチ(希良梨)、チーちゃん(仲間由紀恵)も「変わらないもの」をさがし、もがいている。
 プロダンサーの夢へ踏み出すサチの言葉を聞き、裕美は「アンネの日記のドキュメンタリー」を見た日を思い出す。

恐ろしくて、でも感動して泣いた
いろいろ考えて、心がぐしゃぐしゃだった
でも次の日には、心がすでにつるんとしている自分に気づいた
自分の中で何かが「済んだ」感じになっているのが
不思議で、いやだった
サチはきっとその感じがいやでダンサーになる決心をしたんだと思う


裕美の「さびしさ」が丁寧につづられる序盤の30分をへて、物語の推進力となる「指輪」が登場する。「心がどきどきする」。恍惚に浸りながら裕美は、その気持ちが時間とともに失われることを経験的に悟る。指輪はきょうのうちに手に入れなくてはいけないし、その方法は援助交際しかない。その考えは端的に間違っている。間違っているのだが、これまでの物語の積み重ねが彼女のモチベーションに説得力を持たせている。さりげなくちりばめた「手」をめぐるイメージも効果を上げている。ほかの3人の協力を得て、すぐに購入資金12万円を得るが、裕美は受け取れない。理由は「みんなと対等でいたかったから」。3人に対する裕美の劣等意識が語られているため、すんなりとのみ込める。裕美はほかの3人と別れ、自分一人の力で指輪を買うと決意する。
 「さびしさ」はむしろ、援助交際をする男たちの方に顕著だ。原作者や監督にとって、女子高生の主人公たちより、彼女たちにカネを払うおじさんたちのほうがよっぽど理解しやすいのかもしれない。俳優陣も実力派かつ個性派ぞろいで作品に奥行きを与えている。

しゃぶしゃぶの男、ヤザキ(モロ師岡)。道端で裕美とサチに声をかけ、しゃぶしゃぶをごちそうしながら説教を垂れる。

グルメの男、ヨシムラ(吹越満)。道端で裕美とナオに声をかけ、自宅マンションで手料理をふるまう。

マスカットの男、カケガワ(平田満)。裕美たち4人が口に含んだマスカットを計12万円で買い取る。

レンタルビデオの男、ウエハラ(手塚とおる)。自分を馬鹿にしている(と思い込んでいる)レンタルビデオ屋の店員に見せつけるため、裕美に恋人のふりをしてほしいと依頼する。

キャプテン××の男(浅野忠信)。『キャプテンEO』のファズボールとみられるぬいぐるみと会話する奇妙な男。裕美とラブホテルに入り、ひどい目に合わせる。

携帯電話の男、コバヤシ(渡辺いっけい)。裕美が援助交際で使う携帯電話の持ち主。ゲイの物書きで、援助交際相手としては関わらないが、「キャプテン××の男」の発言の解釈を、裕美に教える重要な役割を担っている。
 孤独とコンプレックスを抱えながら、女子高生にカネを払い、欲望を成就させようとする。援助交際という関係でしか自分をさらけ出すことのできない哀れで滑稽な男たち。どいつもこいつもろくでなしだが、私には彼らの孤独や鬱屈がわかる気がする。女子高生の冷たい視点を通して描かれる男たちの群像にこそ、本作の真骨頂があるのではないか。
「キャプテン××の男」から怖い目にあわされ、裕美は指輪を手に入れることに失敗する。自宅に戻り、バッグの中に指輪を探すがもちろん見つからない。カメラからフィルムが抜き取られていることに気づき、再び装填しようとするが、途中でやめてしまう。もはや写真では「今」をつなぎとめることはできないと気づいてしまった。ここで、ナレーションの河瀬と裕美役の三輪が、劇中で初めて言葉を交わし、文字通りの「自問自答」が始まる。河瀬のモノローグは欲望とさびしさの関係について説明する。

自分には何かが足りないと思いながら、友達とはしゃぐのは難しい。
何かが足りないという個人的な思いはその人を孤独にするから。
時がたてば、あの指輪とのつながりもゆっくりと消えていく。
何ががほしい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、
それはとても難しい。

「きっと私にはできない」。自信喪失した裕美は、空のフィルムケースの中に「キャプテン××の男」のメッセージが入っていることに気づく。「お前だけに教える××の本当の本名 ミスター ラブ&ポップ」。ファズボールのぬいぐるみ付けた彼だけの「本名」だった。裕美が尋ねても、教えようとしなかった名前を、なぜ教える気になったのか。
ヒントとなるのはせりふに登場する映画『シベールの日曜日』だ。裕美がウエハラと入ったレンタルビデオ屋でも一瞬だけパッケージが映る。原作は、裕美が「『シベールの日曜日』を今度見てみよう」と考えるところで締めくくられる。
 1962年のフランス映画『シベールの日曜日』は、傷ついた戦争帰還兵の男と孤児院の少女の心の交流をつづる。二人は互いの孤独を持ち寄り、疑似親子とも、恋愛とも説明できない特別な絆を深めていく。クリスマスの夜、少女は初めて自分の名前を男に明かすが、二人の「異常な関係」は社会に断罪され、男は殺されてしまう。村上龍は、「キャプテン××の男」と裕美の関係を『シベールの日曜日』になぞらえ、両者の孤独と共感にある種の「希望」を描こうとした。いびつで、出来損ないの「希望」である。
 村上は原作のテーマを「前駆的な希望」と説明する。確かに現代社会のなかに「希望」を見つけることは難しい。「希望」という言葉だけはあふれているが、誰も具体的に示すことができないし、そんな大人たちのウソを女子高生たちは敏感に見抜いている。だけれど、いつかは希望になれるかもしれない「前駆的なもの」いわば「希望の胎児」なら、物語で提示できるのではないか。そんな思いで小説を書いたという。

 映画『ラブ&ポップ』に「希望」が映っているとすれば、それは間違いなくエンディングだろう。三輪明日美が歌う調子っぱずれの「あの素晴らしい愛をもう一度」に合わせ、主役の4人が渋谷川を歩く様子を、長回しのドリーショットでとらえている。全編をDVカメラで撮影した中で、エンディングだけは35ミリフィルムで撮っている。だからフィルム上映で本作を見たとき、粗いキネコ映像が、エンディングで一気に鮮明になる。画面サイズも広がり、開放感をもたらす。じっさい脚本には「フィルムのありがたみを感じる観客」というト書きまであった。
当初は、まったく別のエンディングが準備されていた。主人公4人が砂浜で遊んでいる映像に、山口百恵の「ひと夏の経験」(曲を選んだのはプロデューサーの南里幸)が流れるというものだ。じっさいに宮古島ロケで撮影までされたが、ボツになり、渋谷川のバージョンに差し替えられた。結果、日本映画史に刻まれるエンディングになった。
 もしエンディングが当初の予定通りだったとしたら、『ラブ&ポップ』はひどくつまらない映画になっていただろう。海辺ではしゃぐ4人がどんなに楽しそうだったとしても、その姿は「希望」になりえないからだ。見るからに汚い渋谷川を4人の少女が前を向いて、歩く。水しぶきを上げ、泥まみれのルーズソックスで、不機嫌そうに、退屈そうに。彼女たちが生きるのは、宮古島の海岸なんかじゃない。渋谷のどぶ川のように、みじめで冷たい世界だ。それでも立ち止まらず、振り返らず歩く。不ぞろいな歩みとへたくそな歌謡曲。だけれど私はいつも、そこに確かな「希望」を感じるのだ。

ラブ&ポップ SR版 [DVD]

ラブ&ポップ SR版 [DVD]

ラブ&ポップ 特別版 [DVD]

ラブ&ポップ 特別版 [DVD]

 現在、販売されているソフト(SR版)はデジタル映像をそのまま収録しているので、フィルム上映の衝撃を追体験することはできない。1999年に発売されたDVD(特別版)だけは唯一、キネコ版を収録している。もし、このエントリを読んで『ラブ&ポップ』に興味を持たれた人がいたらこの特別版DVDを見るのがおすすめです。もちろんこの先、フィルムで映画がかかることがあれば、何にも差し置いて見に行くことを薦めます。

初恋の呪い―『ローラ』(ジャック・ドゥミ)

Lola/1961/FR

 『ローラ』はジャック・ドゥミ監督の長編第1作だ。ドゥミと聞くと『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』に代表されるめまいがするような色彩感覚と甘いメロディーに彩られたミュージカル映画を思い起こす人も多いとおもう。『ローラ』はモノクロ映画でミュージカルでもないが、港町、水夫、シングルマザー、踊り子などドゥミ作品における主要なモチーフは、ほぼすべてそろっている。今でこそ国内でソフト化され、上映される機会も増えたが、完成から長い間日本で『ローラ』を見るチャンスはごく限られていた。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と評したジャン=ピエール・メルヴィルをはじめ、名だたる映画作家が贈る賛辞を聞いては、想像し、恋い焦がれるほかない「夢のフィルム」だった。日本での初公開は1992年だが、当時7歳の私はもちろん見ていない。
 私が初めて『ローラ』を見たのは2007年3月20日。渋谷のユーロスペースだった。あの夜を今も鮮烈に覚えている。胸をかきむしるような切なさにとりつかれ、ふらふらと映画館をあとにした。電車に乗っている間も、アパートに帰ってからも、ベッドに入ってからも、美しいナントの風景が、愛すべき登場人物たちが、ベートーベンのシンフォニーが、頭から離れない。心を盗まれるとはきっとああいうことを言うのだろう。映画には、人の生き方を決定的に狂わせてしまう魔力があるのだと私は初めて突きつけられた。それはもう、ほとんど恋としか言いようがなかった。
 そして、あの夜から8年が過ぎた。映画の中でローラ(アヌーク・エーメ)は7年間も恋人を待ち続ける。当時はずいぶんと長い時間に思われたが、今はそうは思わない。この8年間、あの夜の陶酔とフィルムへの恋心が、私の中で色あせることはなかったからだ。
 ただ、この映画についてまともな文章は書けなかった。ラウール・クタールのカメラがとらえた光のように、『ローラ』のうつくしさははかなく、つかみどころがない。だから『ローラ』についてつづると、いつだってやたらと感傷的な、できの悪いラブレターのようにしかならなかった。今回もそうなるとおもうが、30歳を前にもう一度この負け戦に挑むことにした。

 『ローラ』はドゥミのふるさとでもある港町ナントを舞台に3日間の人間模様を描いた群像劇だ。初恋の相手を7年間も待ち続けるシングルマザーの踊り子ローラを中心に、複数の登場人物が交わり、あるいは交わることなく物語を織りなしていく。冒頭、海岸沿いの道路に白いオープンカーが滑り込み、タイトルが現れる。ここで流れる短く美しい旋律はドゥミが敬愛する映画監督マックス・オフュルス『快楽』からの引用である。タイトルクレジットのかたわらには「マックス・オフュルスに」と律義に記されている。そもそもローラという名前じたいがオフュルスの代表作『歴史は女で作られる』(原題『ローラ・モンテス』)からの取られているとの説もあるが、実際は『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)からのようだ。
 いずれにせよヌーヴェルヴァーグ一派の例にもれず、ドゥミもまた愛する映画へのオマージュを映画のいたるところに忍ばせている。ただ『ローラ』が真にすぐれているのは、こうしたオマージュが自然に物語に溶け込み、教養主義におちいっていない点だ。『ローラ』を見るために、知識はいらない。必要なのは誰かをはげしく恋い焦がれながら、敗れ去った苦い記憶だけだ。
 ドゥミ作品のなかでは、多くの人々がすれちがいを繰り返す。『ローラ』はわけても、めまぐるしいすれちがいが繰り広げられる1本だ。冒頭の数分間だけで、すでに幾多のすれちがいが描かれている。オープンカーの男、アメリカの水兵フランキー、そして主人公のローラン・カサール。3人の男はおのおのがローラというひとりの女性を介して関わりを持ちながらも、互いに言葉を交わす瞬間はついに訪れない。劇中で彼らは何度もすれちがうが、互いの存在をほとんど意識しない。観客だけが彼らの「近くて遠い」ふしぎな距離感を目撃することになる。自分のまわりでも、同じようにすれちがい、出会わなかった人がいるのだろうか。そんな想像をかき立てる。「出会わない運命」を丹念に描きつくしているからこそ、ドゥミの映画のなかの「出会い」は運命的で、息が詰まるほどにドラマチックにみえる。

 主人公のローラン・カサールはいかにも頼りないダメ男である。登場早々に寝坊した上に、会社の上司には「読書していた」と悪びれもせず遅刻の言い訳をし、当然のようにクビになる。そのくせ口だけは達者で、行きつけのカフェで女主人と常連客を相手に理屈ばかり並べている。ジャック・ベッケル監督の傑作脱獄映画『穴』で知られるマルク・ミシェルが、無気力でペシミスティックな青年を好演している。物語が進むにつれ、彼の心に影を落とす戦争の傷跡が明らかになる。「たった一人の友達だったポワカールも殺された」というせりふはもちろん、ゴダールの『勝手にしやがれ』への目配せだ。自暴自棄になったカサールはポワカールと同じく犯罪社会に足を踏み入れかけるが、初恋の相手ローラ(本名はセシル)との再会をきっかけに、生きる希望を見出していく。

 この映画にはローラのほかにもうひとりのヒロインがいる。カサールが書店で出会う14歳の少女セシルだ。ローラの本名と同じ名前を持つこの少女は、もちろん若き日のローラのすがたでもある。ローラの運命をなぞるようにアメリカの水兵フランキーと出会い、恋に落ちる。フランキーとセシルが祭りで遊ぶ場面は本作のハイライト。不可解だけど、あらがうことのできない恋の魔法を、これほどみごとに表現した映像を私は知らない。高揚感と官能に上気したセシルの表情。バッハの平均律クラヴィアが流れる中、駆け抜ける2人をスローモーションでとらえたショットのとろけるような甘さ。少女が恋に落ちた、まさにその瞬間を生け捕っている。
 ドゥミにとって14歳という年齢も重要だ。ローラが初恋の相手ミシェルと初めて出会ったのも14歳とされている。ローラとカサールの年齢は劇中では語られないが、俳優と同じ年とすればともに29歳。二人の再会は15年ぶりというから、カサールがローラに恋をしたのも14歳のときかもしれない。ちなみにドゥミが「生涯の1本」と崇拝し、本作でもオマージュをささげている『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督)に出合ったのも14歳だ。ドゥミが「14歳の初恋」にこだわるのは、彼自身が映画と恋に落ち、取りつかれた年齢だったからなのかもしれない。
 
 『ローラ』は、初恋をあつかった映画だ。「どうして初恋は特別なのか」。少女セシルの問いにカサールは「初恋は一度きりの特別なもので、二度とめぐってこないから」と答える。多くの人にとって初恋は、生まれて初めての相互理解への敗北だ。挫折は、いつまでも心の片隅に居すわり、私たちを縛り、傷つけ続ける。それなのに、たびたび記憶から取り出しては未練がましい後悔だけが積み重なっていく。まるで呪いのように、人々の心に棲みつく初恋という名の幻想。その甘美さと残酷さの両面を引き出したからこそ、『ローラ』は特別な映画になった。
 待ち続けた恋人がついに現れ、物語はハッピーエンドを迎える。だが、それはカサールの恋が敗れたことを意味する。初恋の「勝者(ローラ)」と「敗者(カサール)」が最後にすれちがって、映画は幕を閉じる。ハッピーエンドの充足感とともに、ほろ苦い敗北感が押し寄せてくるのはこのためだ。振り返ってカサールを見送るアヌーク・エーメのクローズアップが美しい。ディズニー映画のおとぎ話よろしく、ローラにかけられた呪いは解けた。だがそれは、彼女にとって幸せなことだったのか。憂いを帯びた表情は、きびしい現実を予感させる。
 じっさいドゥミは別の映画でカサールとローラのその後を描いている。個別の小説のなかに共通のキャラクターを再登場させ、横糸を編むことで、世界全体を描こうとしたバルザックの「人間喜劇」と同じ手法をドゥミもフィルモグラフィーのなかで実践していく。カサールは『シェルブールの雨傘』で宝石商として成功した姿を見せ、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインと結婚する。皮肉にも今度が自分が別の男の恋を打ち砕く存在になっていた。ローラは『モデル・ショップ』で夫に棄てられ、いかがわしい店のモデルに身をやつす姿が語られる。
 ドゥミの映画は一見して明るく空想的だが、その裏側には血なまぐさい暴力や戦争といった過酷な現実が潜んでいる。人々はしばしば運命にほんろうされ、引き裂かれる。ある者は自暴自棄になり、ある者は幻想を抱きつづけるがドゥミは全ての人々にひとしく、優しいまなざしをそそぐ。そして、最後は必ず希望が勝利する。理想と現実の落差に打ちひしがれながらも希望を捨てないローラと接し、カサールは気づく。「幸せを願うだけで、すでにちょっとだけ幸せなんだ。人生は美しい」。このせりふにドゥミの人生賛歌が凝縮されているのではないか。傷だらけの幻想を抱き続ける人々がいる限り、ヌーヴェルヴァーグの真珠は輝きを失わない。