Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

10月に見た映画(『クロニクル』『パッション』など)

 10月に見た映画は『ダイアナ』を除けば総じておもしろく、高水準の映画でした。『そして父になる』『凶悪』『地獄でなぜ悪い』にも大満足したが取り急ぎ洋画について書いておく。

『クロニクル』(ジョシュ・トランク

"Chronicle"2012/US

 昨年から熱烈な支持を受けていたのは知っていたが、まさか地元にまで上映拡大するとは。首都圏の皆さんが熱心に足を運んでくれたおかげです。ありがとうございました。すでに絶賛が集まった作品を、あらためてほめるのは気恥ずかしいが、実際に前評判にたがわぬ傑作だとおもった。よく練られた脚本に的確な演出力、主演のデイン・デハーンを始めキャスト陣の演技も申し分ない。超能力を身に付けた高校生たちの日常をPOV形式で描く語り口も巧みかつ新鮮。その鮮烈なデビューは、3年前の『第9地区』を思い起こさせる。ヒーローのオリジンものとしても、ティーンエイジャーを描いた青春ものとしても今後も繰り返し言及されるであろう画期的な作品です。トランク監督はこの映画の参照点としてブライアン・デ・パルマの『キャリー』『フューリー』、そして大友克洋の『AKIRA』をあげているという。いずれも超能力を題材としながら、思春期の不安定で制御不能な心理を描いた名作だ。抑圧された日常から逃げるために、超能力というファンタジーにどんどんのめり込んでいくアンドリュー(デハーン)の姿から『フューリー』のロビンや『AKIRA』の鉄雄を想起できる。くわえて、『クロニクル』が突出しているのは、もはや手法としては飽和状態とおもわれたPOV形式の語り口である。アンドリューが自分自身の挙動の一切をカメラに収めようとする「自画撮り」への執着が作劇に生かされている。アンドリューの超能力がエスカレートするのに比例して、カメラも彼の手を離れ、飛躍し、その映像は「劇的」になっていく。カメラの視線はアンドリューの自意識とシンクロするように増幅していき、やがてすべての視線を強制的に自分に集めるという、やるせないクライマックスへと突き進んでいく。もう一人の自画撮り少女、ケイシー(アシュレイ・ヒンショウ)の存在も効いている。自己を対象化し、視線をコントロールできるキャラクターと対比させることでアンドリューの歪んだ自意識がより醜く、哀しい。同時に後半ではアンドリューの暴走に巻き込まれる客観視点として機能しているのも見事だ。最後に『クロニクル』はいったい誰が編集したのかという問題がある。私はむしろその不可能性にこそ惹かれた。『クロニクル』は本来絶対に完成するはずのない、見ることのできない映像である。劇中の登場人物たちは決して『クロニクル』を見ることができない。つまり本当の意味でわかり合うことはできない。その切なさ。この世界中にごまんとあるカメラのすべてを編集し、物語化することなど不可能だ。私たちは所詮、自分のカメラ(視点)でしか物語を見ることができない。しかし、すれちがう視線の一つ一つをつなぎ合わせたとき、なんと豊かな物語が生まれることか。それは映画を見る快楽そのものでもあるのだ。

『パッション』(ブライアン・デ・パルマ

"Passion"2012/FR-DE

 一方、そんな『クロニクル』に多大な影響を与えた巨匠デ・パルマの新作はどうか。例によってブロンド(レイチェル・マクアダムス)と黒髪(ノオミ・ラパス)の美女が登場するが、今回はその対決に赤毛カロリーネ・ヘルフルト)が絡んでいく。くしくも、この映画でもまたカメラが重要な役割を占めている。嫉妬と欲望、覇権争いがうずまく女たちのパワーゲームを征する強力な武器としてカメラが利用されているが、まあそんなことはこの際どうでもいい。
 トレードマークといえる分割画面(コンテンポラリーバレエと殺人!)を皮切りに、麻薬的、魔術的な映像美が爆発。その迷いのなさ、ためらいのなさにあきれつつも、ふるえる。窃視、階段、仮面、双子…つぎつぎと噴出するデ・パルマ的意匠にピノ・ドナッジオの甘美な旋律が重なる多幸感。「嗚呼、デ・パルマの映画を見ている」とよだれをたらし、白目をむきながら、陶然とするほかない。興味のない人には何言ってるのかわからないでしょうが、われわれデパルマ・ジャンキーがここまで興奮するのにはそれなりの理由があるんですよ。「どうせ、いつものデ・パルマでしょう」って、その「いつもの」を与えられるまでにこっちは何年待たされたんだって話である。近作でもっともデパルマ成分の強い『ファム・ファタール』ですら10年以上前である。そして『ファム・ファタール』に欠けていたドナッジオの音楽が『パッション』には、ある。実に20年ぶりである。その一方、初めて組むホセ・ルイス・アルカイネの撮影もすばらしい。前半がおとなしいという意見もあるが、「前戯」があるからこその後半のエクスタシーでしょう。現実と悪夢が混濁する後半戦は高いテンションでエンドマークまで走りきる。まあ、客観的に見れば「デ・パルマ監督作としては中の下」という品田雄吉氏の評価が妥当とはおもうが、デパルマ・ジャンキーにとって今年ベストクラスの映画体験になるのは間違いない。

ペーパーボーイ 真夏の引力』(リー・ダニエルズ

"The Paperboy"2012/US

 『プレシャス』のリー・ダニエルズ監督新作。正直、『プレシャス』の印象をあまり覚えていない。こういうとき何か1行でも感想を書きとめておくべきだったと悔やむ。保安官殺しの冤罪疑惑をめぐって展開する濃密な人間関係。べっとりとまとわりつくように蒸し暑いフロリダの風土(行ったこのないけど)が、登場人物たちのぎらついた欲望とマッチしている。劇中の時代に合わせたのか、70年代の映画を思わせるざらついた質感もいい。ニコール・キッドマンマシュー・マコノヒージョン・キューザック、スコット・グレンらアクの強い俳優陣に囲まれて、ザック・エフロンの清潔感が徐々に疲弊していく。適切なキャスティングだとはおもうが、田舎町の屈折した青年役にはいまひとつ弱い気も。なにせほかの怪演が強烈すぎる。キッドマンのビッチぶりはほとんど殿堂入りだが、圧巻は粗暴な死刑囚を演じるジョン・キューザックだろう。面会室でのキッドマンと興じる長距離セックス(?)もインパクト大だが、その後のセックスシーンで見せる凶暴性は花岡じったも顔負けである。プアホワイトである死刑囚が住む「沼地」はトビー・フーパーの映画に出てきそうなまがまがしさだ。屠られるワニの異様な迫力!動物的なキャスト陣の中にあって黒人家政婦役のメイシー・グレイの美しさも忘れがたい。

『ムード・インディゴ うたかたの日々』(ミシェル・ゴンドリー

"L'Écume des jours"2012/FR

 デューク・エリントンの軽快な音楽にのせて、タイプライターが移動するふしぎな職場で働く人々が映し出される。ああ、これ見たことある!いや見たことないはずだけど、でもなんか見たことある!目の前に広がっているのは確かに、かつて読んだボリス・ヴィアンの世界そのものなのだった。ふかしぎでキュートで、アイロニカルでおそろしいヴィアンの小説世界の映像化にゴンドリーがこれほど適役だったとは。いや驚くことはない。思えば彼が手がけたビョークフー・ファイターズ、ベックのミュージッククリップが、すでにどうしようもなくヴィアン的なイマジネーションにあふれていたではないか。忠実に映像化されたカクテルピアノ、動くドアベル、暴れるネクタイ、スケート場の狂騒などを見るとあらためてヴィアンの想像力に舌を巻く。そのビジュアルのひとつひとつが新鮮で楽しいのだけど、同時に強烈な既視感も覚えるという稀有な映像体験だった。ヴィアンの小説を初めて読んだ時から、何度も何度も心の中に映した映像とほぼ同じだったから。小説の映画化は何度も見てきましたが、ここまで自分の想像したとおりの作品は初めてかもしれない。強いて言うならアリーズとニコラが黒人に設定されているという点(二人が黒人という記述はたぶん原作にはなかったとおもう)に驚きはしたが、今となっては二人は黒人でしかありえないという気すらしてくる。ゴンドリーらしい鮮やかな色彩感覚で表現された若者たちの青春は、クロエの奇病をきっかけに少しずつ彩度を落としほとんど後半はほとんどモノクロ映像になってしまう。楽しかった日々との落差をよけいに際立たせ、つらい。そうだった。『日々の泡』はとてもつらい物語だった…。わかっていたはずなのに、こうも胸が押しつぶされるとは。そんな感情の流れまで追体験させてくれる理想の映画化作品。ディレクターズカットは都市部でしか見られない(まさか『クロニクル』のように大ヒットにつき上映エリア拡大ということにはならないだろう)。ソフトに収録されるだろうから、待ち遠しいところだ。繰り返し見て、細部まで堪能したい。

『進撃の巨人』(荒木哲郎)―ジャパニーズ・カイジュウ・カルチャーの最新型

"Attack on Titan"2013/JP

 2クールにわたり放映されたアニメ『進撃の巨人』が終了した。陰惨かつ過酷な世界観、謎が謎を呼ぶストーリー展開、そして血湧き肉躍る活劇性でぐいぐいと引っ張り、半年間本当に楽しませてくれました。ちなみに連載中の諫山創氏の原作に関しては数年前に3巻まで読んでやめてしまったのですが、このアニメは日本が世界に誇れるジャパニーズ・カイジュウ・カルチャーの最新型にして金字塔だと確信しています。『パシフィック・リム』にとどめを刺され、「日本の怪獣映画は終わった」と皮肉まじりにうそぶく人たちもいますが、いやいや私にとっては『進撃の巨人』こそが見たかった世界なのだった。
 まずは巨人がちゃんと怖い。薄ら笑いを浮かべつつ緩慢な動きで人間を襲い、むさぼり食う巨人たち。ゾンビものの亜流と見る向きもあるが、もっとも近いのは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のモンスター描写だろう。巨人同士の戦闘に転じていく後半の展開は『新世紀エヴァンゲリオン』を経由して『ウルトラマン』の残響が聞こえてくる。いずれも『進撃の巨人』が怪獣映画の正統な後継者であることの証左だ。
 巨人に食われる人間たちの恐怖表現も卓抜だ。たとえば第1話終盤、主人公のエレンが目の前で母親を食われてしまう場面。巨人の襲撃で瓦礫の下敷きになった母親が「自分を置いて逃げろ」と息子に訴える。言うことを聞かずに母親を助けようとするエレンのもとに兵士が登場。一瞬、巨人に立ち向かうかに見えたが、すぐに怯んでしまいエレンを抱きかかえて逃げる。遠くなっていくエレンの後ろ姿を見ながら、母親の口から思わず「行かないで」という言葉がもれる。この場面は本当にすごい。『進撃の巨人』では圧倒的な暴力を前に、人間の誇りや勇気が崩れさっていく瞬間が執拗に描かれる。人間がいかに脆弱で頼りない存在であるかを、ときにシリアスに、ときにコミカルに暴いていく。エレンたちは巨人を介して、世界の不条理、理不尽と対峙してもいる。だからこそこの物語には単なるフィクションを超えた迫真性がある。
 そのほか『スパイダーマン』的なアクションを可能にする「立体起動装置」というガジェット、巨人の侵入を防ぐ「壁」じたいを信仰対象とする怪しげな宗教の存在など、『進撃の巨人』はとにかくディテールが優れているんですよね。これは諫山氏の創造性のたまものだとおもう。原作漫画を読んでもらえばわかるが、まだ若く(私より1歳年下だった!)キャリアも浅い諫山氏の技術力は決して高くない。しかし、粗削りな絵には独特の魅力があるし、次々とあふれてくるアイディアを大学ノートにびっしりと書き込むような初期衝動にあふれている。作者がストーリーやキャラクターに心底ほれ込み、全身全霊で描いていることが伝わってくるのだ。だからこそ、この漫画は多くの人々の心をつかめたんだとおもう。昼休みに自由帳にオリジナル漫画を書きまくっていた全ての子どもたちの夢の結晶なのですよ。
 一方で、その豊かなイマジネーションを語りきるのに、諫山氏の技量は明らかに追いついていない面もあった。私自身、原作漫画はかなり読みづらく途中でやめてしまった。そういう人はけっこう多いのではないか。技術面を補完し、より洗練した形で原作者のイマジネーションを具現化してみせたところにこのアニメの達成がある。極端にいうとアニメというメディアを得て、初めて『進撃の巨人』は「完成」されたように感じる。なにしろ諫山氏自身が「アニメこそが自分のやりたかったこと」と公言しているし、彼の進言によって改変された箇所もあるという。改変に賛否はあるとおもいますが、私は理想的なアニメ化だとおもいますね。原作では描ききれていなかった、細かな背景、登場人物の心理、巨人との戦闘シーンも高いクオリティで再現されている。メーンライターは小林靖子。複数のキャラクターの動かし方やストーリー構成などで、戦隊ヒーローで培った手腕を存分に発揮している。第1話を見たときの「え?ええええ!こんなに面白かったっけ?」という衝撃は本当に忘れがたい。「作品の世界観には惹かれるものの、何となくノレなかった」という人にもぜひ見てほしいです。ほかにもハンジさん最高とか、ジャン成長したなあとか、個々のキャラクターに関して語りたいことはいろいろありますが、このあたりで。シーズン2は作られるのか。はたまた劇場用アニメなのか。今後の展開に興味が尽きないが、個人的には「アニメこそが決定版」とする諫山氏の意見を信じてこのまま原作を読まずに次期製作を待とうと思う。

Bボーイじゃない私が好きだった日本語ラップ16曲プラス1

 私が中高生だった2000年代前半は、日本語ラップがすごく流行っていました。日本語ラップというと「悪そうな奴はだいたい友達」というZEEBRAの有名なフレーズを連想する人も多いとおもいます。確かに学校内のイケてる連中はみんなだぼだぼの服を着て、日本語ラップを聞いてカラオケでもラップしてました。私はというとふだんからsyrup16gを聞いている鬱屈した高校生でしたが、実は日本語ラップもわりとよく聞いていたんですね。友達がラップをしていたというのも大きいですが、単純にかっこいいし新鮮に思えた。最近、なつかしくなって聞き返したりするので、その時聞いていた日本語ラップの楽曲をここにまとめておきたいとおもいます。もし日本語ラップに対してステレオタイプなヤンキーイメージを持って聞いていない人がいたら、もったいないのでぜひ聞いてみてください。

『Groovin'』(EAST END×YURI


『DA.YO.NE』、『MAICCA』の人たちです。『DA.YO.NE』だって今聞いてもじゅうぶんかっこいいですが、あまりに急にヒットしすぎたこともあってか世間的には「一発屋」扱いされているのが悲しいところです。この曲は『DA.YO.NE』を含む4曲入りE.Pのオープニング。Soul2Soulみたいなスムースなグルーヴ感がきもちいいです。

『Stepper's Delight』(Rip Slyme


『DA.YO.NE』がヒットしたのは私が小学生のころ。それから数年後、日本語ラップが急速にメジャー化しました。なかでも人気があったのがDragon AshRip SlymeKick The Can Crewの3組です。Dragon Ashはあくまでもロックに軸足を置くミクスチャーバンドだったのに対し、Ripは4MCと1DJといういわゆる「普通の」ヒップホップグループ。本格的なマイクリレーやライミングなども私にとっては初めて聞くものだったので彼らの登場は衝撃的だったのを覚えています。Ryo-Zのラップがすごく巧いですね。
以下閉じます。

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『ネバーエンディング・ストーリー』(ウォルフガング・ペーターゼン)

"Die unendliche Geschichte(The Neverending Story)"1984/DE-US

幼少のころ、日曜洋画劇場を録画したVHSを繰り返し見ていた。夢中になったレコードを「擦り切れるまで聞く」とよく表現したりするが、『ネバーエンディング・ストーリー』のVHSは本当にテープが擦り切れてしまった。もっとも古い映像体験として私の心に刻まれた特別な一本がついにBlu-ray化された。もうあのころと同じくらいのいきおいで連日のように見ている。注目すべき点は一般公開版よりも7分長いドイツ版(エクステンデッド版)を収録したことです。長らく「幻」とされていたこのバージョンをドイツ本国以外でリリースしたのは日本が初めての快挙。さらにおなじみの日曜洋画劇場の吹き替えも初ソフト化。頭に刷り込まれたせりふの数々が再生されたときは、あまりのなつかしさに涙が出るかとおもった。
 Blu-rayは2枚組で、ドイツ版とインターナショナル版を各ディスクに収録している。特にドイツ公開版の画質、音質のクオリティは破格。バスチアンもアトレーユもロックバイターもファルコンもすぐそこにいるかのようなぴっかぴかのリストアです。もう何度も見たのに、初めて見たかのような新鮮な驚きがありました。ドイツ版は編集に細かな差異があるだけで物語じたいは変わらない。たとえば、冒頭で悪夢を見たバスチアンが目覚める場面が少し長い、バスチアンが書店に残すメモがドイツ語など。見慣れていることもあるが、インターナショナル版の方がテンポはいい印象。両バージョンでがらりと違うのはインターナショナル版にはジョルジョ・モロダーによる新たなスコアが加えられていること。象牙の塔が登場する場面でかかる荘厳で印象的な音楽はインターナショナル版にしかありません。そして、あの有名なリマールの主題歌がついていることです。これは超重要ですね。『スーパーマン』とジョン・ウィリアムズの音楽と同じくらい、この映画とリマールの主題歌は私にとって分かち難い。今回、初めて気付いたのですが、日曜洋画劇場の吹き替えはオープニング、エンディングのクレジットのほかに劇中2箇所ほどBGMをリマールの主題歌に差し替えてある。これだけ繰り返し聞かされれば、それは印象に残りますよね。確かに大人になってDVDで本作を見返したとき「あれ?ここ主題歌かかってなかったっけ?」って思った覚えある。刷り込みというのはおそろしい。

 主人公のバスチアン(バレット・オリバー)はいじめられっ子で、母親と死別した悲しみから物語の世界に閉じこもっている。どんな男に成長したのかときどき考える。正当な続編とはいえないがこの映画の3作目でバスチアンが快活な現代っ子になっていたときは、なんだか置いてきぼりにされたような気がしたものだ。私はいじめられっ子ではなかったが、この自閉的でマザコン気味の少年をとても身近に感じていたし、今でも共感してしまう。よく考えたらバスチアンは主人公なのに、劇中ほとんど本読んでるだけなんですよね。冒頭、バスチアンが書店の主人にお気に入りの本について話すシーンがある。このとき彼が挙げたタイトル(「オズの魔法使い」「ターザン」「海底2万マイル」など)を私はすっかり覚えていて、小学校に進級するとすべて読んでしまった。だから、とても影響を受けた人物ということになるかもしれない。吹き替えはソフト版、テレビ版ともに当時の洋画で数多くの男の子役を担当した浪川大輔氏が当てている。ソフト版とテレビ版で2年ほどブランクがあるので声に変化がみられるのにも注目。

 もう一人の主人公、勇者アトレイユ(ノア・ハザウェイ)。バスチアンが読み進める「はてしない物語」の中でファンタージェンを守るために旅に出る。超絶美少年です。アトレイユかわいいよ。撮影当時10歳だったノア・ハザウェイは、今はどんなイケメンに育っているんだろうと検索してみると両腕がタトゥーだらけのオラオラしたおじさんになっていてショックを受けました。2作目以降は別の俳優さんに変わっていますがこの美しさには遠く及ばず、ものすごくがっかりしたことも覚えています。愛馬アルタクスを哀しみの沼で失う場面は涙なしには見られない名演を見せます。

 岩食い男のロックバイター。登場シーンは意外に少ないのですが、絶大なインパクトです。岩でできた巨大な三輪車で移動し、岩をぼりぼりとダイナミックに食べます。でかいなりしてキュートなやつなんですよ。足の裏出してちょこんと座るところもかわいいし、「この石灰岩はおいしいから少し持って行こう。お弁当に」というところもかわいい。お弁当て。

 ロックバイターと共に登場するティーニー・ウィーニー(ディープ・ロイ)とナイト・ボブ(ティロ・プラックナー)。それぞれめっちゃ速いかたつむりとめっちゃ眠そうなこうもりを乗り物にしている。このかたつむりとこうもりもよくできててかわいいんだこれが。ディープ・ロイは『チャーリーとチョコレート工場』のウンパルンパ役で有名な小人俳優です。

 ファンタージェンが「Nothing(虚無)」の進出により崩壊の危機に瀕しているので、みんな女王様の指示を仰ごうと象牙の塔に集まっています。ここに登場するファンタージェンの住人たちもひとつひとつていねいな作りで見ていて飽きません。

 アトレイユが出会う巨大な亀モーラ。ずっとひとりぼっちなので一人称が「We(わしら)」である。画面にぬっと顔を出すときの迫力は忘れがたい。「若さアレルギー」のため、たびたびくしゃみをしてアトレイユを吹き飛ばす。「どうでもいいことさ」が口ぐせ。

 ファルコンです。犬じゃなくてラッキードラゴン。Blu-rayで見ると、身体の白いうろこがはっきりと確認でき、なるほどドラゴンなんだと感じました。東洋風の神秘的なイメージを想定していた原作者のエンデはこのデザインを気に入らなかったそうですが、いやいや、ドラゴンと聞いてこのデザインに行き着くって本当すごいとおもうんですけどね。当初はミニチュアで制作されていたそうだが、最終的には全長15メートル近くの巨大なクリーチャーとなった。アトレイユに耳の後ろをかいてもらうときに見せる豊かな表情は、操演技術の到達点ともいえる見事な出来栄え。

 虚無の使いグモルク。主に暗がりにいることもあり、VHSではほとんど闇に光る目だけが見えるという感じで怖かった。Blu-rayでようやく詳細なデザインがわかりました。ファルコンとは対照的な黒いオオカミ風のルックスです。ファルコンほどではないが、細かなギミックが効いていて表情豊か。劇中はつわもの感出しまくりでたびたび登場し、アトレイユにも大口叩きまくっているわりに、ものすごくあっけない最後を遂げるあたりが憎めないですね。
 ほかにもエンギウッグ教授夫妻とか南のお告げ所のスフィンクスとかいろいろ書きたいのですが割愛します。全編が豊かなイマジネーションにあふれていて、そのひとつひとつが私のお気に入りです。映画のビジュアルイメージやシナリオに関して、ワーナーと原作者のエンデの間にトラブルがあったのを知ったのは少し大人になってから。私も小学校高学年になって原作にあたったが、確かに映画で語られるのは原作のわずか半分に過ぎない。そしてバスチアンがファンタジーに逃避し、ファンタジーの力を借りていじめっ子たちに逆襲する映画の「オチ」は原作の精神と真っ向から反している。このシーンにエンデが激怒したという話にもなんとなく納得できる。原作が持つ(そして映画中盤までは表現されている)壮大かつ深遠なテーマやイマジネーションに対して、あの結末はあまりにお粗末なのである。それでも私は今も、この映画が好きだ。ブライアン・ジョンソンらが技術の粋を集めて作り上げた特殊効果やクリーチャーたちには、物語の欠点を補ってあまりある魅力がある。CG全盛の今だからこそ、その表現はまったく古びない。もし『ネバーエンディング・ストーリー』の企画があと5年も遅れていたら、彼らのうちいくつかはCGによって表現されていたかもしれない。5年後には『アビス』が、10年後には『ジュラシック・パーク』がやってくる。いまや『スター・ウォーズ』だって本来のかたちで見ることができないが、この作品にはアナログ特撮全盛期の輝きを目にすることができる。いとしいクリーチャーたち。みないきいきとした生命力に満ちている。私の愛する怪物たちは、いまだって変わらずここにいる。劇中で物語を蝕んでいく虚無の存在は、あまりに抽象的過ぎて当時はよくわからなかったが、ようするにファンタジーや前向きな想像力を失うニヒリズムのことだろう。28歳のいい大人がいつまでもこの映画に魅かれてしまうことに、自分でもあきれもする。しかし、私はこの映画を見るたびに、物語に胸を高鳴らせることの原点に立ち返ることができる。ニヒリズムに抗うことができる。それはまさしくエンデが原作で伝えようとしてきた精神なのだ。

『マン・オブ・スティール』(ザック・スナイダー)

"Man of Steel"2013/US

更新が空いてしまったが、夏休みシーズンに公開された「下敷きほしくなる系」の大作は一通り見た。わけても一番面白かったのは、スーパーマンの物語をクリストファー・ノーラン製作、ザック・スナイダー監督でリブートした『マン・オブ・スティール』だった。ノーラン製作のハードかつ「リアル」な方向性に当初は不安もあった。なにしろ私にはジョン・ウィリアムズのあのテーマ曲のないスーパーマンなど考えられなかった。評判の悪い『スーパーマン・リターンズ』ですら、墜落する飛行機を救う場面であのメロディが流れるだけで愛せてしまうくらいである。そういう人は多いとおもう。だが、まったくの杞憂だった。これまた評判の悪い『エンジェル・ウォーズ』を偏愛する私の意見など何の参考にもならないとおもうが、本作はスナイダーの最高傑作と言っていい。いや、彼のフィルモグラフィーのみならず、ここ数年のアメコミヒーローものでは群を抜いた出来ではないか。キネマ旬報掲載のインタビューの中でスナイダーはスーパーマンの魅力を「養子縁組のすばらしい話」と話している。ずいぶんテーマを矮小化したものだと感じたものだが、クラーク・ケントという一人の青年が「HOME」を見つけるまでの成長物語にまとめたことで、『マン・オブ・スティール』はこれまでにない普遍性を獲得できた。
 物語はスーパーマンの文字どおりの「誕生」から始まる。クリプトンのような科学の発達した星でも出産は地球とまったく変わらないことに驚かされたが、どうやら自然分娩で子どもを産むことはクリプトンでは長年禁じられているらしい。父親のジョー=エルは惑星の崩壊を察知し、生後間もない息子を地球に送る。アメリカの農家の夫婦に拾われた赤ん坊はクラーク・ケントとして育てられるがしだいに自身の超人的な力に目覚めていく…と、筋書きはおおむねリチャード・ドナー監督の1作目を踏襲している。スナイダーはクラークの少年期と青年期の時間軸を交互に描くことで、聞き慣れた物語を経済的に処理しする。この方法について「あまり効果的でない」とする意見もあるようだが、時間軸に沿って見せられたらどんなに退屈になっていたことか。個人的に『アメージング・スパイダーマン』の前半部にかなり退屈していたのでいいやり方だったとおもう。クリプトンのくだりはやや冗長すぎる気がするが、少年時代のエピソードはすばらしい。養父母を演じたケビン・コスナーダイアン・レインの演技は出色。事前に知らずにいたキャスティングだったので驚いた。視力と聴力を制御できずパニックを起こしたクラークに、養母がやさしく語りかける場面、クラークに生き方を示すために養父が竜巻に向かっていく場面では涙を押しとどめられなかった。
 後半の怒濤のバトルシークエンスでは、スナイダーのお家芸といえるスーパースローを多用したアクション描写を封印。スーパーマンの直線運動の「速さ」を見せることで新境地を切り開いた。当時は斬新だったスーパースローのアクション描写もここ数年ですっかり手あかがついて、むしろダサいものに成り下がってしまったからな(例『ガッチャマン』)。「『ドラゴンボール』のよう」と評する人も多かったが、前作の『エンジェル・ウォーズ』は『セーラームーン』の最終章のようだったので、スナイダーは知らず知らず90年代東映アニメと呼応しているのかもしれない。
 スーパーマンの独自性は人々が「見上げる存在」ということである。正義と真実と自由のために戦うアメリカ人の高潔な精神でもあるからだ。がれきに埋もれた部下を助けようとするデイリー・プラネット編集長(ローレンス・フィッシュバーン!すばらしい!)の姿がスーパーマンの戦いにインサートされる。それは、超人的な力を持たずとも私たち人間がスーパーマンに引けを取らない正義を実現できることの表れだ。こうしたスナイダーのストレートな英雄描写にやはり胸が熱くなってしまう。そしてスーパーマンは終盤、タブーを侵してしまう。賛否両論あるとおもうが、私はスーパーマンがアメリカの影をも背負い込んだとみる。誰もが見上げる理想の男の手は血で汚れている。このジレンマが後々のシリーズにどう響いていくのかも注視したい。

映画を見た後に読んだコミック2冊。どちらもおもしろかった。『アース・ワン』は映画の方向性に最も近く、スーパーマン誕生の物語がより現実的に語られています。『フォー・オール・シーズン』は『ロング・ハロウィーン』のジェフ・ローブティム・セイルが手掛けていますが、クラーク・ケントの青春と成長を繊細かつやさしいまなざしで描いています。地味ながらかなりの傑作。
ULTRAMAN 1 (ヒーローズコミックス)

ULTRAMAN 1 (ヒーローズコミックス)

 現在計3巻が発売されている『ULTRAMAN』はウルトラマンという既存のヒーローに対して『アース・ワン』的なアプローチが試みられている。おそらくかなりの部分を参照したのではないか。とても面白いのでいつか実写も見てみたい気もするが、『ガッチャマン』のような惨事にならないことを切に願います…。

『風立ちぬ』(宮崎駿)

"The Wind is Running"2013/JP

 ここ数週間、映画を見に行けば、ほとんど強制的に『風立ちぬ』の予告編を見せられたわけだが、それでも4分間の映像には並々ならぬ力を感じずにいられなかった。矢も盾もたまらずひさしぶりに公開初日に早起きして映画館に向かったのだった。結論からいうと私は『風立ちぬ』という作品の魅力がいまいちわかりませんでした。わからなかったのだけど、今後2度、3度と見るうちに何かが印象が変わるかもしれないという気もしている。とりあえず今の感想を書き留めておきたい。
 『風立ちぬ』はゼロ戦の設計で知られる堀越二郎の半生に堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語を交えたフィクションです。小説『風立ちぬ』じたいが堀辰雄の実体験を基にしているので、この映画は同時代を生きたふたりの男の人生を組み合わせた物語といえる。さらにそこには、反戦主義者でありながら戦闘機にどうしようもなく魅かれてしまう宮崎自身のアンビバレンツな感情も投影している…というのも一般的な読み解きだろう。宮崎自身もこの愛憎のバランスにものすごく気を使ったのはわかる。少なくともこの映画は堀越二郎の功績を過度に神話化してはいない。いわゆるアニメ的な「見せ場」はほとんどあの4分間の予告編の中に凝縮されていて、全編の印象は本当に地味で素朴だ。小説『風立ちぬ』じたいは難病メロドラマの嚆矢ともいえる題材なのだから、いかようにも見せることができたはずなのだが、安易な感情移入はあえて封印している。私がこの映画をいまいちつかみきれなかったのもそのためだとおもう。観る側の感情を手取り足取りリードしてくれる現代のテレビ的な演出に見慣れた観客は少なからず戸惑うだろう。
 主人公の二郎はとにかく朴訥とした「善人」だ。いじめられている下級生を助ける正義感あふれる少年時代、初めて菜穂子とであったときの驚くほどの好青年ぶり、帰りの遅い親を待つ子どもに食べ物を譲ろうとするやさしさ、まことに非の打ち所のない「善人」なのだ。その善人が純粋な情熱をそそぎ、戦闘機を作り出す。私たちは二郎が作る戦闘機が、多くの若者達の命とともに消えていくのを知っている。知っているから、二郎の無邪気な努力はやるせなく、悲痛に映る。だが同時に、本当に二郎は「善人」だったのか、彼のような素朴な「善性」が積み重なったからこそ、誰も戦争をとめることができなかったのではないかという気もしてくる。二郎は、飛行機作りにしか興味がない。自分の作る戦闘機がどんなふうに使われるのか、何人の人の命を奪うのかをまったく想像もしていないように見える。「いったいどこと戦争するつもりなんだろう」なんて能天気なことまで言い出す始末だ。私は、そんな二郎の態度をどこかでずるいと感じてしまった。ミクロな視点で人を救おうとしていた若者が、マクロな視点で見れば呪われた殺人機械を作っていたという皮肉に打ちのめされる。関東大震災にしても戦争にしても、この映画の中でまともに死が描かれるシーンはついぞ現れない。それが、なんだかどうしようもなく………気持ち悪い。
 もちろん二郎の偽善性もさりげなく描かれてはいる。子ども達に差し出した菓子を結局受け取ってもらえなかった二郎に対し、友人の本庄は自分達が飛行機を作るカネで、いったい何人の子どもの腹が満たされるのか、と説く。ドイツ(?)からやってきたカストルプは「忘れる」という言葉を繰り返しながら二郎(と観客)が目を背けていた歴史の流れを突きつける。こうしたシーンは観客を現実に引き戻す。しかし当の二郎は戦闘機設計にしても、奈穂子との恋愛にしても、特に迷いもせず目の前の純粋な情熱だけをたよりに突き進んでしまうのである。そして二郎はついにたったひとりも救うことができなかった。それでも風が吹く限り生きねば、という。人生はかくも過酷で救いのないものなのか。そうおもうと、私は素直にこの物語に感動することができず、ただただ深く考えこんでしまうのだった。今後はいろいろな人の感想を読みながら、自分なりの感想を深めていきたいです。

『惡の華』(長濱博史)

"The Flower of Evil"2013/JP

久々に毎週見はまってしまったテレビアニメ『惡の華』が最終回を迎えた。ほとんど無理やり「終わらせた」といってしまっていい。第二部は作られるのか。作られるとすればどのような形なのか。最後の最後までやきもきさせられっぱなしだったが、さまざまなトピックを提示してくれた「問題作」ということは間違いないとおもう。ちなみに原作は2年ほど前に1巻だけ読んだきり、なんとなく続刊を買わずにそのままだった。1巻が面白かった記憶があったのでアニメを見始めたわけだけど、結果としてはかえって作品を楽しめた、と思っている。
 『惡の華』は実撮映像をトレースしアニメーション化するロトスコープ技法が用いられている。『白雪姫』でも使用された伝統的な技法で最近では『スキャナー・ダークリー』も記憶に新しいのだが、なんでも日本のテレビアニメで全編ロトスコープ製作は初めてという。ちょっと意外だった。セル画やコマ撮りアニメとちがう、ぬるぬるとした動きが特徴で、本当なら一番「リアル」なはずなのに独特の居心地の悪さがある。登場人物たちも実際に俳優が演じたものをアニメ化するので当然、キャラクター造形が根本から変わってくる。原作とのあまりの違いから初回放映時はネットのあちこちで賛否が巻き起こっていました。それにしても興味深かったのは、こうした言説の多くが作品そのものへの批評というより「サブカル厨VS萌えヲタ」の二項対立を打ち出すポジショントークになっていた点です。たとえば否定派は「アーティスト気取り監督のオナニー作品!こんなのほめてるやつは斜に構えたサブカル気取り」、肯定派は「キャラ萌えに淫してストーリーやテーマを語る気もない現代アニメと萌え豚どもへの痛快な一撃!」みたいな感じで、どちらも仮想敵を攻撃しているだけのような印象でした。私はというと、1巻だけは読んでいたので初めは戸惑いましたね。本当にロトスコープが最適な表現方法だったのか。ここまでやるのであれば初めから実写でもよかったのではないかなどとも思いました。第1話はほとんどストーリーが進まず、率直に言って「つまらなかった」というのもある。もっとも、この「つまらなさ」も全編通すととても意味のあることだったのだが。とりあえず判断を保留して2話、3話と見進めるうちに、どんどんのめりこんでいったという感じです。
 文学好きでボードレールに心酔する中学2年生春日高男はほんの出来心から憧れのクラスメイト佐伯奈々子の体操着を盗んでしまう。罪の意識にさいなまれる春日の前に、その現場を見たというクラスメイト仲村佐和が現れある「契約」を持ちかける。一方、ふとしたきっかけで春日は佐伯とも接近。春日は佐伯への罪の意識と仲村との異様かつ濃密な関係の中で引き裂かれ、苛烈な「自分探し/殺し」に足を踏み入れていく。郊外の閉塞した学校生活を背景に異常な三角関係が展開していく…というのが簡単なあらすじである。思春期特有の自意識と承認欲求、絶望的な孤独のひりひりとした痛みが物語の大きな魅力だ。身もだえし、目を背けたくなるような居心地の悪さ。「中二病」という概念や言葉がファッション化、ギャグ化していく中で真の意味での思春期を射抜いた作品といえるだろう。実際に思春期の真っ只中にいる中高生がこのアニメをどんなふうに見たのかはけっこう気になりますね。ちなみにアニメが好きな私のいとこ(高校2年男子)は2話まで見て、気持ち悪くてやめてしまったそうです。

 初回放映時に特にバッシングを受けていたのは仲村佐和のキャラクターデザイン。原作絵の仲村さんはふつうにかわいくて、ある意味で一番デフォルメされた存在なんですよね。仲村佐和役は実写の役と声の役をそれぞれ別の人が演じているわけですが、実写の仲村さんを演じた木村南さんもやはりかわいい。アニメ化する段階で製作者がはっきりと意図してその「かわいさ」をスポイルしている。原作のかわいくてサディスティックな仲村さんが好きだった人は確かに気の毒だなあとも思いました。しかし、今思えばここに製作者のスタンスが一番表れていたのではないか。覚悟といってもいいかもしれない。原作は仲村さんのルックスを美少女にすることでかろうじて「商品」としての体裁を保っていたような気もするんです。ところがアニメではこうしたデフォルメすらも剥ぎ取ってしまう。見た目をそのままトレースするのではなくて、原作が描こうとした陰惨で閉塞した思春期の日常にさらに足を踏み入れていく。ロトスコープ技法によってデフォルメすら剥ぎ取られた物語は目を背けたくなるほど生々しく、気持ち悪い。少しのファンタジーも入り込む隙のない圧倒的な「現実感」。なにしろ『惡の華』自体が、ファンタジーの世界に耽溺することで自意識を保っている春日くんの内面世界を徹底破壊する物語なのだから。この「現実感」は実写でも出せなかったとおもう。リアルな映像にはなっても思春期の目を通したいびつで気持ちの悪い「現実」とは違うわけですよ。今となってはこの題材とテーマを語る上でロトスコープが最適な方法だったと思えた。さらに感心したのは回を追うごとに仲村さんの魔的な魅力に観る側も引き込まれていったということ。劇中の春日君の心境とシンクロするように、「あれ?おかしいな。これは好きなのか?どうしてしまったんだ俺は!」というこれまでに味わったことのないようなふしぎな感覚だったし、キャラクターデザインに頼らずに仲村さんのファムファタル性を浮き彫りにして見せた演出にはうならされた。
 シリーズ通してのハイライトは、春日くんと仲村さんが初めて現実世界にはっきりとしたテロをおこなう第7話だろう。思春期の中学生は本質的にテロリストだとおもうが、大半は何もできない。なぜなら不良の万引きとかかつあげと同じような「問題行動」として片付けられてしまうのが目に見えているから。思秋期のころ、とにかくえたいがしれないくらい不愉快で、気持ち悪くて、きりきりと苛立ち、砂をかむように焦り、それでも自分の中でそっと摘み取る(あるいは目を背ける)しかなかった悪の華。もはや何に苛立ち、何に孤独を感じていたのかも忘れてしまった。それをふたりが代弁してくれたようで、なぜか涙があふれた。ラストに仲村さんが春日くんにこれまでと同じ罵倒ではなく敬意と共同意識を込めて「変態!」と言い放つときの高揚感。ここが最終話でもよかったとおもうくらい感動したが、後半はさらに陰鬱な罪悪感と自意識の物語へと展開していく。最終回には初見では唖然としてしまったが、春日君が仲村さんと一緒に「変態=テロリスト」として生きていくことを決めた、と見れば一応の決着したといっていいだろう。もちろん、続きはぜひ製作してほしい。そのときはできれば劇場版という形で見たいですね。
 4バージョンあった宇宙人によるオープニングテーマもキャラクターを理解して聞くとおもしろいです。春日高男、仲村佐和、佐伯奈々子のバージョンをそれぞれ担当したゲストボーカル、の子(神聖かまってちゃん。)、後藤まりこ(ミドリ)、南波志帆のセレクトも絶妙だった。これは買おうと思います。動画は4バージョンを1曲に編曲したもの(もともと1曲なのか?)。かっこいいです。

『華麗なるギャツビー』(バズ・ラーマン)

"The Great Gatsby"2013/US

 『グレート・ギャツビー』(読んだときは『華麗なるギャツビー』という邦題だったとおもう)を初めて読んだのは中学生のころだったか、私はしばらくこのおろかで、みじめで、誇り高い男の人生についてかなりの時間思いをめぐらせた。そのうち当時のアメリカの状況やフィッツジェラルドの人生についても知り、どうして『グレート・ギャツビー』がアメリカ人にとって特別な作品になったのかも理解できるようになった。ただ、輝かしい20年代のアメリカからはおよそ懸け離れた時代と場所に住む鬱屈した中学生の心にまでなぜ響いたのかはよくわからなかった。実は今もよく分かりません。
そんな名作をバズ・ラーマンが監督するという。豪華絢爛なパーティーシーンを映した予告編を初めて見たときは不安を覚えましたが、ラーマンは意外にも『グレート・ギャツビー』の物語や自身の資質に耽溺することなく冷静かつ効果的にストーリーを映像化していたとおもう。おそらくバジェットの多くが割かれたであろうゴージャスで享楽的なパーティーがギャツビーの、さらにいえば20年代アメリカ人の批評にもなっています。
 ディカプリオのちょっと過剰すぎるくらいに劇画化されたギャツビーの造形が圧倒的に正しい。ギャツビーとはいったいどんな人物なのか。さんざん引っ張った挙句ついに画面に登場するとき、パーティーの狂騒もピークを迎える。勇壮に響く「ラプソディ・イン・ブルー」と花火をバックに満面の笑みを浮かべるディカプリオに大爆笑。ラーマンのトゥーマッチな演出とギャツビーの虚飾性が絶妙に合致した名場面といえる。デイジーとの初めてのお茶会で挙動不審になってしまう場面のおかしさはどうだろう。これまで映画化された『グレート・ギャツビー』のすべてを見たわけではないが、彼の愛すべき滑稽さをここまで効果的に描いたのはおそらく初めてだろう。あのシーンで観客は一気にギャツビーを好きになれますよね。
 キャリー・マリガン演じるデイジーが原作ほど軽薄には描かれていないのもよかった。原作ではとんでもないクズ女ですからね。今回の映画版は「悪意はないけどなんとなく主体性のない女」として描くことでリアリティを獲得できたとおもうし、セレブリティ=悪という単純化をうまく回避したのではないか。ああいう女性はいるし、一方的に責めるわけにもいかないですよね。そのぶんセレブリティの悪い面を一人で引き受けたトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)もよかった。
 さて小説『グレート・ギャツビー』の終章は、世界でもっとも美しい英文のひとつといわれる。確かにそんなに英語ができるわけでもない私でも、『ギャツビー』の終章とポーの詩くらいは美しいとわかります。現在比較的入手しやすい『ギャツビー』の翻訳は4種類あるが、結局どれも原文の美しさに届かないとおもっている。ラーマンは有名な終章をほぼそのままニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)に朗読させ、画面に文字すら登場させる。これには驚きました。名文に対する潔い敗北宣言。これでいいのか、ともおもう。しかしラーマンはラストで映画ならではの見せ場を用意してもいる。私たちはあの場面でギャツビーが孤独ではなかったと知ることができるのだ。

『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(黒沢清)

"Real"2013/JP

 ミスチルの主題歌が流れる予告編を見るたびに「本当に黒沢清の新作なのか」と半信半疑だった。しかも予告編を見る限りすごいつまんなそうだったし「綾瀬はるかさんの壊滅的なフィルモグラフィーを前に黒沢清も敗北してしまうのか」なんてなめたツイートまでして…お恥ずかしい。予告編に踊らされていたのは私なのだった。ふたを開けて見れば、どこを切ってもまぎれもなく黒沢清の映画だったのに。間に『贖罪』という驚異のテレビシリーズを挟んだとはいえ、劇場公開新作としては『トウキョウソナタ』以来5年ぶりである。5年の間、私は社会人になり転職し、恋人まで変わった。いったい日本の映画界は何をしていたのか。
 自殺をはかり昏睡状態に陥った恋人を救うため、主人公の青年は最新医療で彼女の意識に入り込む。一見ロマンチックな行為のようだが、そもそも恋人の頭の中に入り込むというのがどうかしている。原作では姉弟らしいのだが恋人どうしへの改変により、黒沢清の資質と親和性を増したのではないか。ものすごく親密な他人と意識を混ぜ合わせるなんて考えるとぞっとする。どこまでが現実でどこからが意識なのか。どこまでが自分でどこからが他人の意識なのか。前半部は「胡蝶の夢」のごとく不安定な世界が展開し、怪奇映画の魅惑に満ちている。黒いごみ袋、ひとりでに開くロッカー、スクリーンプロセス、銃殺、朽ち果てた自動車、どこからか吹いてくる風、落下する綾瀬はるかなど、娯楽映画の中にふんだんに詰め込まれた作家の意匠にうれしくなる。悪夢的なビジョンは主人公たちのあるトラウマに根差していて、その発動装置ともなる「水」の描写は相変わらず冴えている。その一方で新しい恐怖表現にもしっかり挑戦してもいる。前に「呪いのビデオはこわいけど、呪いのDVDはあまり怖くない。幽霊はアナログと親和性がある」というようなツイートを見かけて、妙に納得した覚えがあるけど、『リアル』はデジタル幽霊(といっていいのかわからないが)の嚆矢となるかもしれない。意識を勝手にさまようフィロソフィカルゾンビはどこか自立プログラムっぽい不気味さがある。ずぶぬれの少年が登場が登場したとき、ヒッチコック映画のようにガッ、ガッとカットインする場面があるが、カメラを近づけるのではなく画像そのものを拡大する方式を採っている。荒れた画像がなんともまがまがしい。
 とはいえ本当の新境地は手慣れたホラー映画から怪獣映画に大きく舵を切る後半部だろう。首長竜は予告編にも登場していたのでそう驚きはしなかったし、むしろ苦笑していたふしがあったが、実際にスクリーンに登場するとけっこうぎょっとするんですよね。特に港で姿を現すシーンはすばらしい。あのスケール感、重量感、何を考えているかわからない目、聞いた事もない不快なうなり声…すばらしすぎる。映画の中の怪獣に驚き、恐怖したのは何年ぶりだろう。小学1年生のとき劇場で『ジュラシック・パーク』を見て息を殺したときのことを思い出し、胸が熱くなった。
 それにしても黒沢清映画にあって綾瀬はるかがあんなに浮き立つとは思わなかった。顔面から、肉体(おっぱい)からただならぬ生のオーラを放ってるんですよ。黒沢清という死に神が持ちうる魔力(映画的なテクニック)のすべてを投じても、とうてい封じ込めることができない綾瀬さんの天真らんまんぶり。終盤になると黒沢監督も開き直って、それをドラマの推進力に利用すらしてしまう。なにしろ重要な展開のほとんどを「綾瀬はるかの説得力」で押し通してしまうのだ。ドクターも首長竜も2回も説得しちゃうからね。「お願いします!」「…よし、わかった」みたいな感じで。無敵すぎるじゃないかと。「黒沢清綾瀬はるかに敗北してしまうのか」という当初の見立てはある意味正しかったのかなと勝手におもうことにします。

『桜並木の満開の下に』(舩橋淳)

"Cold Bloom"2013/JP

 こんなに覚えにくいタイトルの映画があっていいのか。でも舩橋淳監督の名前は忘れないでおいたほうがいい。そんなこと私がわざわざ書かなくても昨年のドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』でその才能を知る人は多いとおもう。私が舩橋監督の名前を知ったのは一昨年に刊行された「全貌フレデリック・ワイズマン」。収録された読み応えたっぷりのロングインタビューで聞き手と翻訳を務めていたのが舩橋監督だった。舩橋監督の質問は実に冴え渡っていて、謎めいた巨匠から重要な言葉を多く引き出すことに成功している。たいへん勉強になった。その翌年に発表されたドキュメンタリー映画はワイズマンのメソッドを起点としながらも、しかしまったく異なるアプローチが実践されている。方法論的な違いもあるけど、私が舩橋とワイズマンで決定的に違うとおもうのは「現実に抗う物語(想像力)」ではないかとおもう。私たちは多かれ少なかれ現実に「物語」を見いだして生きている。こうした「物語化」を拒否するのがワイズマンだとすれば、舩橋は厳しく過酷すぎる現実に抗う人間の想像力を信じている、といえるのではないか。私は舩橋監督のこうした姿勢と「311」は無関係ではないとおもっている。何度か書いたけど、「311」は私たちに物語のもろさ(と同時に尊さ)を突きつける出来事だったから。
 本作は茨城県日立市の映画製作支援制度「ひたちシネマ制作サポートプロジェクト」の助成を受けて製作。企画は「311」以前からあったものの、震災後撮影中止を余儀なくされお蔵入りになっていたのだという。舩橋はそのまま『フタバ〜』の撮影に入ったが、日立市から「映画を完成させてほしい」と打診があり撮影に入った。映画は「311以後の物語」になっているので多少のリライトもあったのだとおもう。
 町工場で働く栞(臼田あさ美)の夫が出張中の事故で亡くなる。事故を起こしたのは夫が目をかけていた後輩の工(三浦貴大)だった。栞は工を許すことができないが、周囲の非難に耐えながら仕事に打ち込む工の堅実さに少しずつ心が変化する。やがて工も栞に特別な感情を抱くようになり…。ストーリーを読んでピンとくる人も多いとおもうが、物語は明らかに成瀬巳喜男乱れ雲』の引き写している。加害者と被害者の悲恋だけでなくストーリー展開やせりふなど随所に『乱れ雲』の影響が垣間見られるので意識的なつくりなのだろう。恋情と罪悪感のはざまでもがき苦しむ男女の王道かつ古典的なメロドラマが展開する。撮影日数はたった11日だったいう。『乱れ雲』とは比べ物にならない低予算映画…なのだが、たとえばこの映画が『東京物語』に挑み壮絶に散った『東京家族』と同じわだちを踏んでいるかといえばそうではない。埋めることのできない喪失感、自分だけが生き残ってしまった罪悪感、不条理で無慈悲な世界への憎しみのなかで、それでも人とのつながりを求めずにはいられない男女のメロドラマは、311を経ることで切実さを増したようにおもう。
 二人が働く町工場を始め、建築物をとらえたショットが相変わらず冴えわたっている。『フタバ〜』を見たときドキュメンタリーとは思えないほどばしっとキマったショットの数々にしびれたものだ。一応日立市の観光映画としての期待されたところもあったろうに、舩橋がとらえる「街」は匿名的でよそよそしい。だからこそそこに息づく人々のぬくもりが胸を打つ。旅館で一夜を明かした朝、栞がそっと工の足首をつかむ。ふたりが肉体関係を結んだかどうかははっきりと示されないが、この官能性はどうだろうか。映画とは関係ないけど、三浦貴大さんは三浦友和山口百恵の息子ですね。成瀬と同じくメロドラマを得意とした西川克己の映画で数多く傑作を残した二人の息子が現代のメロドラマで実直で清潔な男を演じている…なんだか感慨深いものがありました。