Devil's Own

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偉大なる失敗作―綿矢りさの新作が「ボヴァリー夫人」になれなかった理由

 りさタンの新作は、今までのようなライトノベルではなく500枚の長編。ページを開いただけで作風の変化がわかる。いつもはすかすかだものね。

夢を与える

夢を与える

 というわけで、いつもなら完全立ち読みで済ませるものを今回は購入。本棚に綿矢りさが並ぶのはちょっと恥ずかしいのだが仕方ない。
 昨日2回通読した感想は。。。。エロくない。りさタンなのに。なぜだ。
 上にも書いたがこれまでの綿矢りさの作品には空白が多かった。回りくどいレトリックは排し、最小限の風景描写と感情表現のみに頼る。そのスタイルは散文の域を超えて徹頭徹尾「漫画的」。要するに凄く解りやすい作家だったと思う。文字離れを起こしていた若い世代はその「わかりやすさ」と「女子高生の日常」という身近な題材ゆえに簡単に彼女の作品にコミットできたし、一方で高い年齢層は若さゆえのダダイスティックな表現の斬新さを高く評価した。故に彼女の前2作は広く受け入れられたわけだが、新作で綿矢りさは自身の武器でもあった「わかりやすさ」とは完全に決別し、所謂「小説」のフォーマットに則っている。恐らくこの作品で多くの読者が彼女から離れていくかも知れない。
 とはいえこういった「漫画的」要素の消失は僕にとってそんなに一大事ではない。一大事なのはエロくないってことだ。この作品は、主人公夕子が幼い頃からチャイルドモデルとして芸能界に進出し、成長と共にブレイクし、やがてスキャンダルによって衰退していくまでの18年間を描いたものだ。徹底して一人称だったこれまでの作品と異なり、今作は全編が三人称の体裁をとり、その視点も、冒頭は恋人に別れ話を持ちかけられる夕子の母・幹子、夕子が中学に上がるくらいからは夕子、そしてラストは夕子のスキャンダルをスクープする週刊誌記者と言う具合に次々と移り変わっていくという非常に特殊な構造を持っている。前2作にあった商品化された「セックス」や、それに振り回される「男子」へのサディスティックで醒めきった眼差しはここにはなく、むしろ作中の女性達は常に身勝手で欲望に忠実な「男」達に縋り付き、振り回され、やがて打ち捨てられる。全編に漂うのは自分が捨てられるのではないかという「焦り」、そして結局は捨てられる運命にあるのだという自嘲的な「諦め」だ。「インストール」や「蹴りたい背中」であそこまで強かで、奔放だった「女性」の姿は一体何処に言ったのか?「夢を与える」に登場する女性達の焦燥と絶望は、芥川賞受賞後目まぐるしく変化した綿矢りさ「日常」が投影されているという大方の意見に僕自身も賛成せざるを得ない。
 芥川賞受賞の際記者会見の場で「怖さと不安しかない」とナイーブに語る綿矢りさの姿を思い出す。大衆の期待の中で焦りに侵される綿矢りさは完全に言葉を摑む能力を見失っていると思う。この作品のレトリックや表現はどれも手垢のついたものばかりだし、ブレイクしやがて衰退していくアイドルという題材自体とても陳腐なものだ。登場人物の科白が悉くリアリティーに欠けるのも、今作の欠点だと思う。
しかしながら「恋人」と「大衆」という二つの「男」に持て囃され、やがてあっさりと捨てられる主人公・夕子と同じく、綿矢りさは大衆の身勝手さ愚かしさを知っている。そして、その不定形で曖昧な「人気」という呪縛からは決して逃れることができきない。僕は身勝手で愚かな大衆の一人として、この作品は綿矢りさ最初の「失敗作」だと言い切ろう。彼女の心は物語終盤の夕子と同じように引き裂かれ、ずたぼろになっているに違いない。
 「夢を与える」というタイトルも非常に微妙なのだが、このタイトルに主人公が率直な感想を担当のスタイリストに述べるシーンは非常に秀逸だ。この一文だけでなんとなく僕はこの作家を信じたい気持ちになる。*1

「“夢を与える”って言ったの。ねえ、この言葉ってきたならしくない?」

 期待と賞賛の中で、綿矢りさはメディアの向こう側の人間になった。本人は意図しないにせよ彼女なりのリアリティーを書こうとしたのかもしれない。しかし一方で今までの彼女の作風を決定つけていた「女の子」としての感性と決別することにも不安があった。今回の作品は、マージナルな状況下で瓦解していった彼女の精神が反映された偉大なる失敗作だ。「夢を与える」という不潔に気づく彼女の感性を僕は信じるぜ。

追記
 「文藝」の対談で高橋源一郎が、綿矢にフローベールボヴァリー夫人を強く薦めていたのだそう。

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

 
 美貌ゆえに周囲から持て囃され、大切に扱われるという立場にありながらも、自身の欲望のために堕落し、自滅していく主人公という点では、確かに「夢を与える」は「ボヴァリー夫人」に通じるものがあるだろう。しかしながら「夢を与える」には「ボヴァリー夫人」にあるむせ返る官能とかデカダンスは全くと言っていいほどないと思う。それは今回の作品で決定的に見られるエロスの欠如と関わってくると思うのだが、具体的な性描写はあってもエロスはないんだよね。綿矢りさは、そのエロさを描くだけのポテンシャルを本来的に持っている作家だ。それだけに、彼女自身の「焦り」が「夢を与える」を「ボヴァリー夫人」にすることを妨げたことは悔やまれるかもしれない。
 でもまぁ、もし「夢を与える」が完璧な「ボヴァリー夫人」になっていたら、間違いなく僕は彼女に退屈したと思うけどね。作家自身の焦燥感がダイレクトに伝わるからこそ、瓦解したこの失敗作は途轍もなく魅力的だったりするのだ。

*1:後に夕子自身の口から語られる、「与える」という表現が高飛車だし不自然だという説明は、不自然すぎるし、助長だと思うが。