Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『狼の死刑宣告』など

 社会人になるとやはり時間がなくなってきて、ブログを書いている暇があるならもう一本映画を見ようという気持ちになり、なかなかまとまった文章を書くことができない。こんな駄文でもそれなりの時間を確保しないと書けないんですよ。休日の限られた時間を使っていかに効率的に映画を見るかが最近の課題になりつつある。スムーズに鑑賞を進めるために映画館ごとのタイムテーブルをメモ帳に書き出していたのだが、それを上司に見つかってしまい。「おまえ、その時間管理能力をもっと仕事に活かしてくれYO」と言われてしまった(笑)いい上司でしょ。僕はこの人が大好きだ。
 というわけでインプットの比重がアウトプットを上回っている今日この頃なのだが、やはり鑑賞後思ったことをほったらかしにしておくのはもったいない気がするので備忘録として書き溜めていたものをちょっとだけ体裁を整えて残しておく。録りためていたWOWOWのフィルムノワール特集なども消化しなくてはいけないのにな結局このエントリにも時間を使ってしまった。

狼の死刑宣告


 まさかジェームズ・ワンに泣かされるとは。ケビン・ベーコン演じるごく普通の中年サラリーマンが、最愛の息子を理不尽に殺され、復讐の鬼と化す。このストレートすぎるプロットで勝ったようなものだ。硝煙と血の香りが漂う70年代アクション映画のように、この世界で司法はほとんど役に立たない。現実的に考えて警察組織がそんなに無能なわけがないだろう、という批判もあるかとはおもうが、ベーコンとギャング集団の純然たる「戦争」は、警察組織という「現実」を極力廃しているがゆえ、阿部和重の小説世界のように奇妙な映画内リアリティーを実現してしまっている。復讐を決意したベーコンが『タクシードライバー』のデ・ニーロよろしく頭を丸める場面はなんだかジョークのようだが、悪を憎む一方でずぶずぶと悪に染まっていくこの小市民の宿命をヴィジュアルとして印象付けるいい場面だとおもった。残酷なことに僕らはこういう男の姿を見たくて映画館に足を運ぶのだ。ホームビデオに家族のすがたを収める幸福な父親など寒くて見ていられない。変わり果てたベーコンの姿をみてギャングのリーダー格が、「お前、俺たちそっくりだぜ」というようなせりふを発するのだが、この言葉も余剰に思えるくらい饒舌なワンシーンであった。
 本作もうひとつのハイライトは、ロングテイクで捉えた高層駐車場での追跡劇。このワンシーンを全力で走りきったベーコンたち役者にも頭が下がるが、立体駐車場の空間設計を最大限に活かた撮影法には心底感嘆する。カットを細かく割って、勢いでごまかすあまりに人物たちの位置関係がまったく把握できないという悪例は数々見てきたし、正直ジェームズ・ワンもそうした手法に頼りがちな監督だったとおもっていたのだが、この追跡シーンはその課題をクリアした稀有な例ではないだろうか。シアターN渋谷で見たのだけれど、もっと大きなスクリーンで見たいのでもっと公開館数増やしてほしい。

エスター


 ホラー映画における恐怖の対象として、子どもを描くことは比較的ポピュラーだとおもう。僕自身そうした題材が大好物で、『回転』と『光る眼』は特に偏愛している。『エスター』もそうした系譜に位置づけることのできる作品だが、養女としてエスターを迎える家族(特に母親)の病理に切り込んでみたり、家族内に聾唖の少女を配してみたりと物語を凡庸なものにしないような工夫が随所に施されている。監督のジャウメ・コレット=セラは、『蝋人形の館』のリメイクを丁寧な描写で佳作に仕上げていたが、今回も抑制の効いた恐怖演出(精神的恐怖)と痛覚を強調した生々しい暴力描写(肉体的恐怖)とを自在に使い分け、飽きさせない。雪深いカナダの風景も本作の閉塞感を盛り上げており、マコーレー・カルキン主演のサスペンスホラー『危険な遊び』などを彷彿とさせた。この映画を見るとフロイトの言うとおりキリスト教圏の人々が「子供の性欲」を本気で畏れていることがよくわかる。終盤エスターの正体が、「科学的」に明かされてしまった時点で本作はホラー映画からアクション映画(またはサスペンス映画)へとシフトしてしまうので、子どもホラー好きとしては少し残念であったが。エスターを演じたイザベル・ファーマンのファム・ファタルぶりが凄まじい。僕もエスターに家族を滅茶苦茶にされてみたい。断じてロリコンではないぞ念のため。だってエスターは(ry

『私の中のあなた』


 白血病を患った少女ケイト・フィッツジェラルド(ソフィア・ヴァリジーヴァ)のドナーとして遺伝子操作によって生まれてきたアナ(アビゲイル・ブレスリン)が、両親を相手取って訴訟を起こす、という難病ものとしてはちょっとだけ変わった物語。監督は、ニック・カサヴェテス
 自らの出生を幾分シニカルに語るアナのモノローグを導入としながら、フィッツジェラルド家を取り巻く状況が、家族の面々にアナの弁護士(アレック・ボールドウィン)を交えた複数人のモノローグ形式によって紡がれていく。さまざまな人々の証言が交錯し、時制さえも自由に往還しながら無造作に並べられるため、必然的に特定の人物への感情移入を廃するようなつくりとなっている。散文調ともいえるこの手法は後々登場するケイトが作成したパッチワーク風のアルバムと呼応しているようにもおもえるが、娘の救出にほとんど病的とすらいえる執着を見せる母親(キャメロン・ディアス)の立場をぎりぎり悪役にならない程度に踏みとどまらせることに貢献している。いろいろと問題や亀裂を抱えてはいるもののこの映画の中の家族は基本的にとても仲がよくて、これが父親のジョン・カサヴェテスの演出であったならもうすこし違った描かれ方をしていただろうなと想像してしまったりもした。難病、余命といったモチーフは日本人の大好物であるが、本作はそうした題材をいたずらに仰ぎ見ることなく、アメリカ人らしいウィットに富んだドライな感覚で描いているのもよかった。こうした病気へのアティチュードをもっとも体現しているのは中盤で登場するケイトの恋人(トーマス・デッガー)だろう。ケイトと同じく余命いくばくもないこの若者の登場によって、映画はぐっと推進力を増す。「癌になってよかった」という彼のせりふが示すとおり、ケイトやその家族にとって忌むべきはずの病気は、一方で彼らの幸福や存在そのものを担保しているのである。人は、世界との関わり方によって、状況への態度によって、まるで錬金術のように不幸を幸福へと変質させることができる。というより、そういう生き方しかできないものだ。薬の副作用で嘔吐した恋人に2枚のチューイングガムを噛ませなだめるシーンの美しさは特筆に価する。そして、この美しくやさしい青年はまるでまぼろしか何かのように、潔く映画から退場してしまう。難病を抱えた恋人たちの離別は、もうそれだけで「感動的」になるはずなのだが、そこをあえて愁嘆場として描かなかったところもよかった。
 終盤、アナの訴訟をめぐる子どもたちのせつない約束があきらかになってからはこれでもかと泣かせにかかる。場内はいつかのダグラス・サーク特集上映のようにすすり泣きに包まれていました。僕は泣かなかったけど、けっこう危うかったな。ピザを食べようと盛り上がる家族たちの姿を病室の窓越しにとらえるショットも忘れがたい。

ATOM


 原作と比較した批判はナンセンスだ。なぜなら製作者が作りたかったのは『鉄腕アトム』ではなく『アイアンマン』なのだから。空中都市メトロシティは、人々の生活のすべてをロボットが世話してくれる。いらなくなったロボットは地上へと廃棄されるが、この空中都市にはホワイトカラーやブルジョワしか住むことができず、地上にはメトロシティから脱落した人々や捨てられたロボットたちがレジスタンスを組織している。というアウトラインからもわかるようにこの映画はテーマ的には『ウォーリー』の影響下にもある。聞いただけで完璧に面白そうでしょう。『アイアンマン』+『ウォーリー』なんてさぞかし面白い映画ができるに違いない。僕もそう思いました。ところが、そうはならない。いろいろ安易に盛り込みすぎて脚本そのものが瓦解してしまっているのだな。天馬博士は気持ちがころころ変わって完全に狂人にしか見えない。アトムは人間とロボットをつなぐ橋渡しのはずなのに、「もう怒ったぞ」とか言ってロボットたちを破壊しだすし、もう何がなんだか。エンドロールで「鉄腕アトム」のテーマソングが流れたのはよかった。あの歌を聴くとなぜか泣きそうになってしまう。文明と科学が、人類をいい方向に導いてくれると本気で信じた人たちの、まじりっけのない希望にうちひしがれてしまうのだ。だから、こんなにポーズばかりで中身のない文明批判を交えたアトムなんて見たくなかった。こんなの子どもに見せたくない。