Devil's Own

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ガス・ヴァン・サントの三部作が描く退屈な「生」と唐突な「死」を巡る謎掛けについて

冷たいベッドで、浅く憂鬱な眠りをむさぼって、今日も夢を見た。
白い老人に爪先からぼりぼりと食われている。
よくないよ。実によくない。

ガス・ヴァン・サントの「ラスト・デイズ」をようやく視聴。

ラストデイズ [DVD]

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カート・コバーン自殺前の2日間をモチーフにしたフィクションであり、勿論未だ多くの議論を呼んでいるいるカートの自殺動機や行動理念への「答え」を提示するものでは決してない。
むしろますます彼の死の空虚さが浮き彫りになり、観た後には、遣り切れない虚脱感が残る「空白」を描いた映画だ。
とりあえず鬱屈とした精神状態ではとても見られる映画ではないというか、やはりここ最近のサントの映画群と同じく静謐で反復的な映像詩といったところ。映画として集中してみるというより何度も繰り返して垂れ流し続けるのが最も効果的な視聴法ではないだろうか。
というよりあまりに単調なので、まともに見ていたら、普通は寝ると思う。

何にせよこれで、実際の事件から着想を得、「死」という共通項を持ったガス・ヴァン・サントの実験映画3部作は、ここに完結である。
コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにした傑作「エレファント」。

エレファント デラックス版 [DVD]

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広大な砂漠に唐突に投げ出された若者二人がはたすら彷徨うだけというトンデモ映画「ジェリー」。
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そして、「ラスト・デイズ」。
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いずれも、味気ない無味乾燥の3部作。視聴者への説明を完全に放棄した映画作りには賛否両論だが、(いやむしろ否定的意見の方が多いという印象さえあるが)僕は、彼の詩的な世界観と独創的なカメラワークに息をのむ非常に重要な作品であったと評価している。映画としての完成度や面白さ云々で、これらの作品を解釈するのは少々無理があるかもしれない。
せっかくなので、「ラスト・デイズ」そのものをレヴューしたり、そこからインスピレーションを受けたニルヴァーナ論を展開することは、また別の機会に譲ることにして、サントのこの静謐で憂鬱な3部作の魅力について、考察してみようと思う。

先にも書いたが、この3作はいずれも実在の事件にサント自身が着想を得て、そのいずれもが「死」という抽象的で空虚なテーマによって結びついている。
ドリー・ショットや引きのアングルを多様した独特のカメラワーク、同じ時間の同じ状況が別個の人間の視点から繰り返し描かれるヒプノスティックな演出法、セリフを極力抑え、劇的な出来事を徹底的に排除した退屈極まりないドラマ作りなど、技術面・演出面での共通項はいくつもあげることができる。
が、やはり最も特筆すべき共通点は、登場人物が、誰一人として「死」を最後の最後まで意識し得ないということであろう。
勿論視聴者はこれらの映画がコロンバイン高校の銃乱射事件やカート・コバーンの自殺前夜をモチーフにしているという事前情報を持っているので、ある程度不穏な空気を察することができるし、そこから暗く虚無的な死のイメージを感じることは出来る。が、もしそれらの事前情報を持たずしてこれらの映画を観たらどうであろうか。
確かに映像にはひたすら憂鬱さと不安が漂い続けて入るが、いずれにしても「事件」そのものは何の前触れや伏線もなく極めて唐突に、しかも映画の終盤になってようやく出現する。
しかも、その「死」の原因や背景については明確な説明が与えられることは決してなく、全ての解釈が視聴者に委託されるというつくりだ。サント自身も、物語そのものを見た人がそれぞれ解釈できるように、このような「丸投げ」に極めて意識的だったという。
故に、この3つの映画は否応なくオーディエンスの死生観そのものに問いかけるような構造になっているというわけだ。
少年達を銃乱射へと駆り立てたのはヴィデオゲームなのか?

二人の青年が狂気へと取り憑かれたのは、ヴァーチャルリアリティーを思わせる殺風景な砂漠と不安な心理状態によって、現実感覚が麻痺したせいなのか?

ひとりのミュージシャンを自殺へと追い詰めたのは、ドラッグか、レコード会社か、それとも理想主義か?

答えはそう簡単なものでもあるまい。
そもそも善悪の価値基準から生命の重さに至るまで、きっちりと説明付けるような現在の映画作り自体に甚だ問題があるのではないだろうか。
僕にはそう思える。
映画の中においては「生」が退屈そのものであり、劇的な「死」こそが視聴者に強く望まれる。一連の映画を観て、欠伸する度に、このような皮肉な現実を突きつけられているような気になる。
ましては視聴者側は劇中において「死」が必ず起こるものだと事前に約束されているわけで、そのことが更なる苛立ちを募らせているわけだ。
しかし、よく考えてみれば、「死」というものはどういう形であれ、私達の人生の終着点として必ず起こるものである。だとすれば、私達はこれらの映画の主人公となんら変わらないではないか。
劇中で主人公達は、僕達と同じように呼吸し、食事し、排泄するなどして、生命活動を維持している。にも関わらず、僕達は劇中の人物達の「日常」を退屈で不安なものだという印象を持つことを禁じえない。
これは僕達が、日常において「死」というものを極力隠蔽して暮らしているからに他ならない。

前にも述べたことだが、ことに日本人は「死」に関しての認識が欠落している。
このことが、死生観そのものに問いかけるようなこれらの作品の評価を曇らせているとすれば、それは少し筋違いというものであろう。
「死」の隠蔽の裏返しとしての「生命」の謳歌は、実はエゴイスティックな生存願望の表出に他ならない。
サントの3部作が内包する暗く冷たい不穏な空気は、僕らの日常にいつも存在している「死」という実存そのものにほかならない。

(Witterberg Art Department)
Memento Mori。
死を忘れるな。